A君たちは自己の死という大問題をまじめに考えたことがないのでしょう。
仏語に、「独生独死独去独来」というお言葉がありますが、次の世界に出てゆくとなったら、地位も名誉も財産も何もお伴しないのですよ。
寂しいことではありませんか、恐ろしいことではありませんか。底の知れない不安を感じませんか。
誰でも親や兄弟姉妹、親戚、友人などの死に出遇うと泣きます。
「もう再び会えないのだなぁ、話もできないのだなぁ」という別離の悲しみもありますが、「自分もいつかは必ず、再び帰ってはこられない遠い旅に、たった1人で旅立たねばならないのだなぁ」という恐ろしい淋しさから、自分のために流す涙でもあるのです。
しかし、遺体の前では泣きますがそれもその時だけです。自分だけで自己の死と対面し死を考えようとは致しません。恐ろしいからです。
人々は、「よく生きたい」といいます。「よく生きたい」ということは、「できるだけ死から遠く離れて生きたい」ということです。
病気が怖い。老いが怖い。失敗が怖い。地震が怖い。核戦争、公害、食糧危機、人口問題、エネルギー危機といっても、その根底には死があるからです。死という核心に触れることはあまりにも恐ろしすぎるので、それに衣を着せ、やわらげたものに対面しようとしているのです。
だから死が顔を出すと人は恐怖のあまり、「生きたい」と叫んだり、反対に、「いっそ死んでしまったほうがマシだ。死にたい」と叫んだりするのです。
戦前は結核が死病で、希望に燃えた多くの人々がこの不治の病に侵されて、絶望の中で悶え死んでゆきました。戦後は結核に代わってガンが死病として登場しました。結核はどうかすると治ることがありましたが、ガンの場合は100に1つも死を免れることはできません。
このような100%死に直結するガンにかかった人々は、医師の一挙手一投足、一言半句に一喜一憂し、ある時は死を予感し、ある時は治るのではないかと、はかない希望を抱きます。
作家の瀬田栄之助氏は、その遺著、『いのちある日に』のあとがきの中に、日がな夜がな、寝ても覚めても死の恐怖感にさいなまれているガン患者の精神の内奥を、「かからにゃ分からぬ地獄」といい、凄惨にして絶望的な日々の勝利なき戦いの苦しみと悩みを訴えています。そして、「死を前にしてはニーチェもキルケゴールも役に立たなかった」と記しています。
人間が生きるためには必ず何かの希望が必要です。だとすれば、近いうちに死を迎えること必至のガン患者にとって、どんな希望が残されているといえましょうか。
残り少ない日時を希望を持たせ、生きる勇気を与えるものが一体あるでしょうか。
死がもたらすものは暗黒と消滅だけだとする近代合理主義は、絶望的なガン患者に見失われた生きがい、死にかい、希望、勇気を与えることができるでしょうか。
ニーチェもキルケゴールも死の前には何の役にも立たないのは、当然のことです。
これは短い未来も無いガン患者のみのことではありません。
だれにでも死は確実に訪れてきます。それは今日の次には明日が来るし、春の次には必ず夏が来るように、万人がやがて必ず直面しなければならない大問題です。
たとえガンにかからなくとも、全人類はこの死の不安から逃げ切ることはできません。
この死の不安の影につきまとわれている人間に、真の幸福が味わえるはずがありません。
独りで、死の恐怖に怯え、生への執着に悶え、生きがいを見失い最後には烈しい肉体的苦痛など、全く勝ち目のない苦闘の末、何の解決も得られないまま刀折れ矢つきて死んでゆく、ガン患者と何ら変わるところはありません。
こうした精神的にも肉体的にも、地獄の責め苦を受けて死んだ人が過去にあり、また未来永遠に同じことが繰り返されてゆくのです。
こんな一大事を何故に人々は、真剣に考えてみようとしないのでしょうか。たとえ考えても線香花火に終わるのは、なぜでしょうか。
現代人の知性は、死後の無を肯定しながら感情は死の不安に耐え切れず、死後の世界を肯定しようとして、その矛盾に苦しんでいるのです。
では、なぜ死が恐ろしいのか。それは、「死は休息である」とか、「永眠である」とかいってはいますが、「死んだらどうなるのか」真実それがハッキリしないからです。
しかも、死の恐怖は決して死後の世界と、無関係ではあり得ません。
親鸞聖人は、「念仏誹謗の有情は、阿鼻地獄に堕在して、八万劫中大苦悩、ひまなくうくとぞ説きたまう」(和讃)と教え、『教行信証』行巻には、「呼吸の頃、すなわちこれ来生なり。一たび人身を失えば万劫にかえらず。この時に悟らざれば、仏、衆生を如何したまわん。願わくは深く無常を念じて、いたずらに後悔をのこすことなかれ」後生の一大事を警鐘乱打し、その一刻も速やかな解決を促されるゆえんであります。
shinrankai.or.jp/qa/qa0106.htm から