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仏教伝来

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古代の大阪湾は内陸部に湾入し,湖(草香江)を形成していました。やがてその湖が干拓され平野がつくられました。大和川は石川と合流して西北へ流れ,何本かの川に分かれて旧淀川から大阪湾へ流れます。大和川は水害によって流域住民に大きな被害をもたらしていましたが,1704年に大和川の付け替え工事が始まり,流れを大きく変えることで,その被害を抑えることができました。現在の大和川河口はこの江戸時代の工事によってできたものです。

甘樫丘の東麓斜面から数棟の掘立柱建物跡や石垣が発掘されて話題となっている蘇我氏。これまで,蘇我氏は謀反を企てた悪者と扱われてきましたが,その見方が変わろうとしています。2006年の飛鳥の発掘によって,よりはっきりとした蘇我氏の姿が見えてきたようです。これは,NHKでも「大化改新 隠された真相~飛鳥発掘調査報告~」として放送されました。

 6世紀,日本(正確には日本という国名はまだなく,「倭国」と呼んでいました。)に仏教が伝来し,日本人の文化や精神世界に深く入り込んだのは聖徳太子の力によるところが大きいのです。しかし,最初に仏教に興味を示し,これを受け入れたのは蘇我氏でした。なぜ日本に仏教が伝わったかを考えるとき,百済の聖明王の政策として,機を見て使者を遣わしたとも,もとより早くから国外に目を向け,深いつながりのあった百済系氏族から中国や朝鮮半島情勢を入手していた蘇我氏が要請したから送られてきたとも考えられます。また,いつ仏教が伝わったかの議論については,当時は百済から多くの渡来人が日本に来ており,仏像や経文など仏教に関わるものを私的に持ち込んだと考えるのが自然でしょう。ですから,いつ伝来したのか特定できないというのが正しいのかもしれません。そこで,「仏教伝来」=「仏教公伝」という言葉を使い,仏像や教論などが朝廷に献上された時が日本に正式に仏教が伝来した年と解釈したいと思います。

では,この仏教伝来時の様子を整理してみましょう。

☆仏教伝来年は大きく2説あります。

・『日本書紀』によると552年です。

 欽明(きんめい)天皇13年(欽明天皇の即位は539年としているので,西暦552年です。),百済の聖明王(せいめいおう)が朝廷に遣いを送ってきました。その一人が怒利斯到契(ぬりしちけい,「り」の字は正しくは口偏に利を書く)で,釈迦仏(金銅製)一体,幡蓋(はたきぬがさ,「幡」「蓋」とも仏前に置かれた),経論数巻を献上しました。

・『上宮聖徳法王帝説』8世紀初めに成立したとされ,日本書紀と並ぶ書物で,主として聖徳太子の伝記が書かれています。これによれば,仏教が日本に伝来したのは,「志帰嶋(しきしま)天皇:欽明天皇)の時代、戊午(つちのえうま)の年10月12日,百済国の主明王(聖明王)が初めて渡ってきて,仏像・経教,僧等を奉る。」とあります。欽明天皇が即位した年を531年としているので,仏教伝来は538年となります。

・『元興寺縁起』といわれる『元興寺伽藍縁起并流記資材帳(がんごうじがらんえんぎならびにるきしざいちょう)』にも仏教伝来は538年としています。『元興寺縁起』は元興寺(飛鳥寺)創建の由来が書かれた書物です。『上宮聖徳法王帝説』同様,『日本書紀』が書かれる以前の資料に基づいて作成されたものと言われます。

 現在は,仏教公伝を538年とするのが通説です。

欽明(きんめい)天皇は仏教を礼拝すべきかを臣下たちに問うと,「大陸の優れた文化であり,西方の国々が礼拝している仏教を受け入れるべきである。」と蘇我大臣稲目(そがのおおおみいなめ)が答えたのに対して,物部大連尾輿(もののべのおおむらじおこし)や中臣連鎌子(なかとみのむらじかまこ:天智天皇時代の中臣鎌子・鎌足とは別人でつながりのない人物)らは「外国の神を受け入れれば,日本古来の「神(国つ神)」が怒る。」という理由から,仏教に反対し,徹底的に排除するべきと主張しました。そこで天皇は「試しに拝んでみるように」と,仏像や教典を蘇我大臣稲目に授けました。稲目は小墾田の自宅に安置し,向原(むくはら)の家を浄めて寺としました。この時より向原の家は日本最初の寺となりました。現在,向原の家は飛鳥の向原寺です。

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 国内で疫病が流行った時,尾輿はその原因が仏教を受け入れたせいだと批判しました。そのため,570年に蘇我大臣稲目が死去すると,天皇の許可を得て稲目の寺を焼き払ってしまいました。家は焼けても仏像は燃えなかったため,仕方なくこれを難波の堀江に投げ込んだのです。しかし,疫病はなくならず,天災も続きました。

 後に推古天皇はここ向原の地を宮としました。小墾田の宮に移った後は豊浦寺(とゆらじ)となりました。

584年9月,百済から鹿深臣(かふかのおみ)が弥勒菩薩(みろくぼさつ)石像一体と佐伯連が仏像一体を持ってもどってきました。蘇我馬子は全国に修行者を探させたところ,播磨にいた恵便(えべん)という高麗からの渡来人がいることがわかりました。そこで恵便を仏教の師とし,さらに3人の娘を出家させて尼(あま)としました。また,自分の家の東に仏殿を建立し,弥勒菩薩の石造を安置しました。また,馬子は石川の自宅-石川精舎(しょうじゃ)にも仏殿を建てて仏像を収めました。585年2月には,大野の丘に塔を建てました。

国内には疫病がはやり,古来よりの神々をないがしろにした祟(たた)りだと騒がれ始めたため,崇仏を承認していた敏達(びだつ)天皇も物部守屋(もりや)や中臣勝海(かつみ)の主張を聞き入れて排仏命令を出します。この時を待っていた物部守屋は,仏殿や塔に火を放ち焼き払ってしまいました。しかし,その後も疫病はおさまらないばかりか,天皇や馬子,守屋までが病気になってしまいます。馬子は崇仏の天皇から再び崇仏の許可をもらうとたちどころに病が治りましたが,天皇は崩御してしまいました。

 続く用明天皇は587年,在位わずか2年で崩御しました。

 この後の天皇を誰にするかで物部氏と蘇我氏の対立が激化します。

☆蘇我馬子の推薦・・・・妹と欽明天皇との子の泊瀬部(はつせべ)皇子

☆物部守屋の推薦・・・・敏達天皇の弟の穴穂部(あなほべ)皇子

 しかし,馬子は穴穂部皇子や宅部(やかべ)皇子を殺害してしまいます。これは馬子が自ら討たれる前に先手を打ったとみてよいようです。こうして,蘇我氏が推す泊瀬部皇子が崇峻天皇として即位しました。

 この後,蘇我氏と物部氏は武力衝突を起こし,丁未(ていび)の変へと発展します。

権力闘争に勝利した蘇我馬子や聖徳太子は,「仏法興隆」をめざし,その後本格的な寺院建設を行っていきます。

法興寺(ほうこうじ-「興」は法をおこすの意味をもつ)は明日香村にあり,現在は飛鳥寺(「安居院」)として知られています。法興寺は我が国最初の本格的な伽藍配置の寺院として蘇我氏によって建立されました。また,飛鳥寺は日本で最初の瓦葺(かわらぶ)き寺院でもありました。掘っ立て柱の板葺き建物しか見ていない人々にとっては外国の文化を直接感じるものであったようです。瓦の使用の他にも寺院建築には多くの渡来人の技術が使われています。掘っ立て柱式の建築から石の上に柱を立てる礎石を用いた技法もその一つで,それまでの建築方法が一変しました。聖徳太子は大阪に四天王寺,奈良斑鳩に法隆寺(「隆」は法を隆める:たかめるという意味をもつ)を建立しました。→聖徳太子

asuka-tobira.com/syotokutaishi/bukkyodenrai.htm から

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