ホーム 仏教のスペース Bouddhisme 鏡峰 靖錫 ( 1892 ~ 1982 )

鏡峰 靖錫 ( 1892 ~ 1982 )

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1. 生涯

出家後、通度寺に新しく建てられた明信学教と講院を卒業した後、通度寺で行政の業務を担当することになった。だが、道を悟らなければならないという思いでいっぱいになり仕事に熱中できなくなった彼は、ある日、経典を読んでいる途中、「一日中、他人の宝を数えても自分には何の利益もない(終日数他宝、自無半銭分).」という句にショックを受け、参禅することを決心した。

1915年(23歳)、通度寺を出た鏡峰は海印寺の禅院へ行った。しかし、通度寺に戻れという恩師からの連絡が引き続いてくるようになると、色々な禅院へ移動しながら参禅に没頭した。鏡峰は30歳を過ぎて、ある程度話頭に取り組むことができるようになってから、再び通度寺に戻った。

1925年、通度寺で共に参禅していたある首座から「毎年米二十俵を出すから、力を合わせて念仏堂を建てよう」との提案を受けた。鏡峰は、僧侶たちや信徒たちに念仏精進をさせることもできるし、寄る辺のない老人たちを救済することもできると思い、極樂庵に「養老万日念仏会」を創設した。

1927年36歳となった年の冬、鏡峰は通度寺の極樂庵において『華厳経』を説法する法会を開いた。説法を始めた日から不思議なことに、はっきりと話頭に取り込むことができるようになり、四日目の日、突然壁がなくなるように、視野が広くなり天地の間に完全な一圓相が現れる境界を体験した。次の日の朝には、自己と宇宙とが二つではない不二の境地を体得した。

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このように二度の悟りの境界が現れたが、まだ話頭に対する疑いを完全に解けなかったので、鏡峰は再び話頭三昧に入った。次の日の夜明け頃、風もないのにろうそくの火が「パパパッ」と音を出しながら踊っているのを見た瞬間、彼は膝をぽんと打ち、大笑いしながら外へ飛び出した。どんなに努力してもわからなかった疑いの塊が一瞬にして解け、自性の本來の姿が顕れたのである。出家後20年目にして迎えた大自由の世界に陶酔し、彼は月夜に独りで踊っていた。

自分で自分をあらゆるものにあたって訪ねたが 我是訪吾物物頭

目の前に即ち主人公が現れた  目前即見主人楼

ハハ、もう逢って疑惑がない 呵呵逢着無疑惑

優曇華の色が法界に広がって流れる 優鉢花広法界流

鏡峰が本格的に衆生教化の旅に出たのは、1930年(39歳)の2月、通度寺の仏教専門講院の院長に就いてからである。以来50余年間、悟道の生の中で禅と教を越え、ひたすら衆生教化の仕事を果たした。通度寺の住持などから、1953年11月に極樂庵の護国禅院の祖室に推挙され、その後、入寂する日まで、鏡峰は30年間を極樂庵に滞在しながら、法を求めて來る禅僧たちや一般の仏者たちに真理の道を案内した。

82歳からは毎月最初の日曜日に極樂庵で定期法会を開いたが、毎回一千名余りの人々が説法を聞くために集まってきた。90歳の老齢にも関わらず、弟子に支えられながら法座へ上がった。彼は他の禅師とは違い、祖師の語録からの引用によるのではなく、ほとんど自分の言葉で説法を行った。

91歳の1982年7月17日、弟子の明正を呼んだ後、明正の「師匠が去った後でも、師匠に会いたいです。何が師匠の真の姿でしょうか?」という質問に鏡峰は、「夜半三更に大門の閂を触ってみろ」という言葉を残して入寂した。

2. 著書

漢詩や筆墨にも秀でていた鏡峰は、書画も沢山残していた。また、19歳から91歳まで一日も欠かさずに、重要なことを記録していた彼の日記は、当時の世相や仏教史を詳しく伝える資料になっている。悟った後、鏡峰は、漢岩(1876-1951)、満空(1871-1946)、龍城(1864-1940)など、当時の善知識たちとも数多くの手紙を交わした。特に、漢岩との参禅修行に関する20余通の手紙は、現存しており貴重な資料になっている。『鏡峰大禅師禅墨』(1994)、『鏡峰大禅師法語集』(1979)などは弟子の明正によって編纂された。明正は鏡峰が亡くなった極樂庵で、師匠の法語集や書画集などを編集しながら40余年間、庵を守った。

3. 思想の特徴

鏡峰は悟りに達するために「これは何か?」の話頭を参究して、二度の悟りの境界を体験した。すなわち、「一圓相」と「不二」の境地であった。つまり、自分と他人、主観と客観がすべて無くなる境界が、一つの丸い圓に表出されたのである。そして、目の前に展開されるあらゆる現象は、心が作り出したもので、その心が正に平常心であることを体験した。すべての存在はありのままに、自然のままに、自分と二つではない[不二]の関係の中にあるという真理を経験したのである。ただ、惑いに包まれている衆生たちとの違いは、この世を煩悩無しに、葛藤無しに、鮮明にはっきりと見ることができるということである。彼が一年後の日記に記録したように、如来禅を体験したのである。

ところが、「これは何か?」の話頭で、どれほど努力してもわからなかった疑問の塊が、風の前にあったろうそくの音によって解消し、完全な悟道を得た。鏡峰の悟道は自己を観念的に確認するだけに止まった見性ではなかった。疑問に満ちた自分自身をギリギリのところまで追い込んで、一刻も自分を離れたことがなかった主人公の真の姿を鮮明に確認した体験の見性であった。ついに、鏡峰は祖師禅の意味を体得したのである。

悟って見れば、あまりにもすべてが自明であった。「衆生の目や耳が惑いに深く包まれているために、見ることも感じることもできないだけであって、明るく明るい法性の道場には、いつも月明かりが透明であり、風は常に清く、何の問題もなかったことを、どうしてわからなかったのか」という法語を伝えた。

さらに、彼は人生を夢に例えた。「法界の衆生が百年を過すといっても、真の心を見られなくては、単に夢の中の眠りであろう。(法界衆生過百年 此心無見夢中眼)」と述べた。この上もない信心の対象であったが、はるかに遠い所の他に存在しているように感じていた、その仏をどうしてそんなに遠くに求めたのだろう。すでに変わっていた鏡峰には、「名も自分と同じで、目の前にいる」その仏を、ありありと体験できたのである。

jp.koreanbuddhism.net より

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