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禅の本質と意味 (上)

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禅の本質というものは、議論をしたり、言葉で説明したり、聞いたりすることは不可能です。よって、今日、私も禅の本質を、言葉に代えて別にお見せすることは出来ないので、(月を指す)指の立場で、その禅の本質を客観化させて説明をし、この説明を通して禅の本質を見られれば、という気持ちで、お話いたします。

さて、この禅というものは、例を挙げるとこのようなものがあります。

悟った方が、禅の本質をあらわにして大衆に話します。それを聞き、即座にその場で私たちが悟ったとしても、それを何かのようだと言おうとすると、まるで皮膚を掻いて腫れ物を作るようなものです。これが実際、禅の本質なのです。

ここで何かを我々が修行する。証得する。または悟る。このような言葉はすべて無駄なものであり、蛇足なのです。蛇足とはどのようなものかというと、蛇に足が付いたということです。蛇に足が付くと、蛇は進むことができません。どうしようもないということです。
ところで大部分、「禅」といえば「話頭を挙して参究することである」。このような理解がほとんどだと思います。その理解は、実際はたいへん間違ったものなのです。
さて、この禅というものが一体、何であり、これが果たして私たちの生活に必要なものであるか?必ずしなければならないものなのか?しなければ、どのようなものなのか?一度、考えてみなければなりません。禅をなぜするのか?何か時間が余ったからするものなのか?なぜするのか?しなかったらどうなのか?

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1.なぜ我々が禅を必ずしなければならないのか。今日、その理由だけでも明らかに話をしたく、超えていかなければなりません。実際、我々がそれを知らなければならず、それならば我々が禅を必ずしなければいけないんだ!。せずにはおれないんだ!これは選択ではなく、必須なものとしてしなければいけないんだ、というこのような考えになっていただければ、

2.それでは禅は果たしてどのようなものであるか?

この二つ(1.なぜ我々が禅を必ずしなければいけないのか?、2.それでは禅をどのようにするのか?)を私が今日、お話いたします。

さて、禅とは果たして何か?

いま皆さんが私の言葉を聞いています。まさしくこれが禅です。禅がなにか、ほかにあるのではありません。まさしく信徒のみなさんが、いま私の言葉を聞いており、私を見ている、これがまさに禅なのです。みなさんが禅なのです。そのままで。

そうならば、この言葉を私が代えて申し上げるならば、禅という言葉が仏という言葉であり、仏性という言葉なのです。同じことなのです。さて、『涅槃経』には「有情無情が皆有仏性である」と言っています。また原始経典には、「現象があったり、現象がなかったり、全ての存在は縁起として存在している」、「縁起を見れば法を見る、法を見れば如来を見る」と言っています。それならば、存在=縁起=法=如来ということになります。如来=存在なのです。私たちはそのままで禅であり、そのままで真理なのです。

これが我々が禅をするときに、きちんと理解して行かなければいけない道です。ところで我々は衆生であるから、仏になるために参禅をするというならば、それは間違った見解です。そのようにして参禅をするならば、膨大な時間の無駄になるだけでなく、参禅そのものもきちんとできません。この存在自体が禅であり仏なのです。今日、これを信じなければいけません。これは仏の言葉なのです。私がさっき『涅槃経』に「皆有仏性」と言い、『阿含経』から仏の話を例に挙げましたが、仏の言葉を聞こうとしないならば、ここに来る必要がありません。どうして時間の無駄をするのですか。

それでは、我々が『涅槃経』に「皆有仏性」と言っていますが、それだけを覚えています。そうならば、「皆有仏性」というのですから、私の肉体の一部分、それを心と言おうが、本性と言おうが、それだけが仏性じゃないか。そのように誤解しているようです。『涅槃経』の数行あとには仏性を説明しています。何と説明しているかというと、「仏性はあるものでもなく、無いものでもなく、有りかつ無く、有るものと無いものを合わせて中道となる」と。このように説明しているんですね。これを見ずに仏性だけあると見るから、雑草の中に金の塊が少し入っている。雑草も仏なんですよ!雑草も! だから、この身体も仏であり、いま見聞しているこの精神、心と言ってもよいでしょう。これが仏だというんですよ。我々の身体も仏なんです。我々はこの身体は仏でないと思っています。

だから我々は何かの修行をして仏になるという。これはとても間違った考え方なんです。我々は本来的に仏なんです。仏と全く同じ本質とはたらきをもっているんです。我々も。違いなんて全然ありません。ただ我々は、持っている機能、効能といってもいいでしょう。それができないでいるだけなんですよ。効能の面では仏と我々と少し違っています。それはなぜそうなんでしょうか?それは錯覚に陥っているからそうなんです。錯覚に。それはどのような錯覚でしょうか。私がいるという錯覚。この場に私がいないということを確認されれば仏と同じ作用をし同じ効能をすることになります。少しも違いはありません。ところで、「ああ、私が仏なのかもしれないなあ」。このように信じていると、それは盲信というものです。理解がない盲信はとても危険なものです。だから、なぜ私が仏なのか?これを理解すれば我々が修行していく際に、ともて時間の節約にもなり、また我々が錯覚に陥り、様々な苦痛も、ものすごく緩和されます。

それならば、我々がなぜ仏なのか?これが重要です。この理解は自分が仏であると思えば自然とついてきます。ここで私が少し理解をする際の手助けを申し上げましょう。
さきほど原始経典で仏が「すべての現象があったり、現象がなかったり、すべての存在は縁起として存在している」だから「縁起を見る人は法を見、法を見る人は如来を見る」。このようにおっしゃいましたが、それを他の言葉で我々が説明してみるならば、我々が中道として存在しているということです。 我々は「ある」「ない」という方式で今、思考をしています。それはなぜそうなのかというと、「私がいる」と考えているからそうなのです。私が輪廻をし、私がおり、全てのものを「わたし」というものを前提として思考をしているのです。果たして「わたし」というものはあるのでしょうか?

『般若心経』に「五蘊は皆空」であると言っているじゃないですか?五蘊とは何でしょうか?「色・受・想・行・識」ですが、色は我々の肉体だけをいうのではありません。さっき私が話したように、この世の中にある現象を消してしまう全ての存在は色であるというのです。これはインドのサンクリット語ではルーパ(rūpa)といいます。まずは私の肉体だけを色であるといえば、それでは受・想・行・識は精神じゃないですか。ところで『般若心経』に明らかにこの肉体や、またこの精神は「皆空〔すべて空である〕」と言っているんですね。空であると。それでは、なぜ我々は「私がいる」と思っているのでしょうか?(「私がいる」と思うのは)仏の言葉に正面から挑戦するものでしょう。それを信じようとしないのであれば、お寺に来なくてもいいです。それを信じようと我々が仏の弟子になり、この法堂に入ってくる資格があるのです。そうでなかったら、ここに入ってくる理由なんてないですよ。そういう人は多いです。信じないんです。信じないくせに、ああしてくれ、こうしてくれ、なんだかんだと… それは(本当に)違います。

(私が存在しないということを)信じなければいけません!どうして信じなければいけないのでしょうか?「縁起」だから信じなければいけないのです。この道理が『華厳経』でもそのように話しており、『法華経』にもそのように話しており、『金剛経』にもそのように話しており原始仏教でもそのように話し、禅でもそのように話しています。みな同じなんです。

禅は、ただ体験を強調し、さっき私が申し上げた「本来成仏」。これを徹底して継承してきた宗派が禅なんです。だから、この禅を最上乗禅ともいい、最根機禅ともいうのであって、ほかの教やこのようなところでは(月を指す)指も一部分、認定しています。しかし禅では指は絶対認めず、ただ月だけが真理であり事実なのです。その真理・事実である月を見よというのであって、(月を)指し示す指は絶対認めません。それが禅の特性なのです。

縁起であるから空である。私が存在しない。だから仏教は無我であるというのです。それでは我々の本質が、そのように存在しているというのですから、そのように一度、錯覚を壊し、それを一度、体験をしようとしますが、そのように体験することと、我々がそのまま錯覚に陥って生きることと、どのような違いがあるのでしょうか?さっき私が明らかに効能の面で(仏と我々が)が違っていると言いました。そのような違いがあるのか。ものすごい違いがあるのです。

「おれだ」「おまえだ」という立場で我々が幸福を追求すると仮定してみましょう。そうすると、その中に様々なものがありますが、それを総合して一言で表現するならば、全て私の外にあるものを幸福の条件として探しているのです。私の外にあるもの。だから、その時代は違いますが、そのような幸福の条件をとても、生まれた時から持って生まれた方が、ほかでもないお釈迦様なのです。その方は生まれるや王子でしょう。すべてのものをみな持っていました。ところでその方がそこでそのようなものを持っているといっても、もちろん良い時も、悪い時もあります。だからその条件は、良いもの、悪いものを交替しながら、また繰り返しながら、そのように生きていく、そのような幸福なのです。さて、私がさっき申し上げたように、我々が無我を悟り、その悟りは世界で我々が感じる幸福は、それでは何でしょうか? 我々が既に空を悟った後にはどのようになるのでしょうか?これが本当に重要なんです。これをきちんと理解する人がいないのです。「(空を悟った後には)毎日毎日が良い日なのです!」良いことと悪いことが交差しながら我々が生きていく、それは幸福ではありません。それは完全な幸福ではありません。我々が無我を悟り、一切が皆空であることを知り、縁起であることを知り、そのように知った後には、我々が展開する思考や生が毎日毎日良くならなければなりません。それでは毎日毎日が良い日であるだけでなく、すべての日が良い日がなります。最終的には生老病死までも良いことになります。みなさんが仏の前に来て福を祈る時、仏様に祈ることの中の一つが健康・老い・死、このようなものだと思います。事実、私も最も会うことがいやなのが何かといえば、それ〔健康・老い・死〕を例に挙げます。ところで我々が空を悟り、縁起であることを知り、我々の存在が仏であることを知れば、生老病死までも我々は真理へと変えることが出来る目が生じるのです。

私がいる修行場の窓が相当、大きいんです。そこから見ると、前にある山がとても良いんですね。だから冬には雪が降る景色がとても良いんですよ。春になると新芽が生えて景色がとても良いです。夏になれば、その緑陰もよく、秋になると紅葉もよく、一度も私はその生きた絵を掛けておいて見ながら、一度も私はその景色に対して悪いと考えたときがありません。自然なその季節の移り変わりを私は楽しみながら見ています。生老病死も我々がそのように見なければなりません。生老病死も…

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だから我々が、この本来 仏であるという、そのことを知れば、我々の社会がこのように混乱はしません。いま世界各地で戦争を本当にたくさんしているじゃないですか。アメリカはほっておいても世界の予算策定する国が100何10カ国であると私も聞いたんですが、ここに策定される一年の国防費、それだけでもこの地球上で飢え死にしたり、病気になっても治療を受けられずに死ぬ人が無くなります。「あの坊主、夢みたいな話をしているんじゃないか?」とお考えになるかもしれませんが、私は可能性があることだと考えています。だから私は他の人が私に不利益を与えると言って、面と向かって一緒に戦い、このようにすることは絶えることの無い繰り返しであり、戦争する悪循環を継続して作り出すことなんです。お釈迦様の当時にも同じことがあったんです。お釈迦様の国は小国だったので、強大国からとても苦しめられていたんですよ。だからお釈迦様もものすごく苦悩されていたが、このような間違った歴史を終らせ、人類全てが共に幸福に生きられる道がないのか、そうしたら、果たしてこのお釈迦様は、私の存在がそのように生きるようになっていることを発見したのです。だから解制の時、私に全ての首座たちからも、我々が様々な歴史的にたくさん試験をしてみたが、今後、世界平和や、また集団社会や、家庭や、個人や、すべての葛藤や對立から抜け出す道は、唯一、仏がおっしゃった中道だけなんです!! だから今日、この場で私が何か知っていることはありませんが、仏の法について正確に不純物がここに加わらず、とても純粋に私がお知らせしたくて、私がこのような話を申し上げているのです。この仏の教えは本当に我々の歴史を変え、私の個人の歴史も変えました。そのようにできるものだということを、皆さんは信じさえすればよいのです。

少し前にティック・ナット・ハンが来ていたでしょう?その方がソウルで修行ブームを少し起こしたわけですが、大変助けになったと考えています。そしてダライラマ。その方の本が刊行されて、私は不幸にも一冊も読んでいませんが、それ(やはり修行)に助けになったと考えています。私はダライラマをダラムラサでに行って会い、3時間ほど話をしてきました。ところで、あちらの仏教と我々の仏教とは明らかに違います。これを簡単に説明すると、あちらの仏教はほとんどが(月を指す)指の仏教です。指!さっき私が申し上げたように。我々は幸いにも禅宗がわが国に定着し、徹底して月の見物をしています。この点が我々韓国仏教の特性なのです。

ですからティック・ナット・ハンが、その著作の中で「怒り」という本が大変多く売れたといいますが、それは「怒りを覚えたときに静める方法」を説いたものであることを思い出しました。するとお釈迦様が、自分が仏であるということを悟った後、怒りを覚えたかどうか一度、我々が辿ってみましょう。

お釈迦様の当時は裸足だったでしょう。遊行をして、ある村に入り大きな木の下で少し休憩しようとすると、近所の人たちがお釈迦様が休憩することを拒否して追い払いました。ところでお釈迦様は顔色一つ変えずに振り返りました。すると近所の老人がお釈迦様を呼び止めました。「こういう時、普通は怒り、顔色を変えるものですが、あなたはどうして顔色一つ変えないのですか?」と。するとお釈迦様は次のように答えました。「私がここに来る前に、下の村を通ってきたのですが、その村では私を歓迎してくれた。歓迎だけでなく、良い話をしてくださいというので、良い話をしてあげた。すると、近所の人たちがみな家に入っていって小さな贈り物をもって出てきて、私にくれるのですが、私が道を行く人だから贈り物は必要ないので、それを返してきた。それに対してこの村は入るや否や悪口という贈り物を私にくれたが、(悪口を言って休むこともできないようにしたので)良いものも受け取らない人が悪口を私が受け取ることができるのか」。そのようにして怒りを覚えなかったのだよ。

またお釈迦様は、両辺すなわち、お前だ・俺だということを離れておられた。「(両辺を離れた)それが私本来の姿であり、それが見性であり、それが成仏なのである」。お釈迦様はいつもそのようにおっしゃった(主張したので)。外道たちは「あればある。なければない。曖昧にしてふざけてるんじゃないか?」と言いながら、お釈迦様を訪ねてきました。そして、お釈迦様をたいそう攻撃しました。そのとき攻撃しようと来た時は、その人も自信があった人だそうです。ところがお釈迦様は全く反応されなかったそうです。ただ微笑を浮かべていらっしゃったといいます。自分が怒ってお釈迦様の顔につばを吐きました。すると横にいた阿難がかっとなって、辛抱できなかったんです。だからお釈迦様仏は「もう終ったのかい」と。するとこの人は恐れて帰ったのですが、行った後に阿難がお釈迦様に (どうしてあの人たちを怒らなかったのか)と憤懣やるかたない様子で怒ったといいます。するとお釈迦様がおっしゃるには、「さっきはその人を憐れに思ったが、今は阿難、お前を(その外道よりも)もっと憐れに思っている」と。

我々は、俺だ、お前だという、その思考の枠組みで反応している時には、怒りや憎しみや、憎悪心で反応します。それならば、お釈迦様は何をもって反応されたのでしょう?憐みで反応されたんです。憐みで。この憐みが何かというと(慈悲なんです)。慈は相手を楽しませる慈であり、悲は相手から苦しみを除いてやる悲です。すると、この憐みはですね。我々の感情をものすごく淨化します。情緖的にとても安定したものにします。これ自体が我々の本来の姿と一つになるようになります。したがって、反応されることはされますが、憎しみや憎悪心としてされるのではなく、憐れみをもって反応するのです。すると、憐れみをもって反応をするから元来、怒らないということなのです。そして、これが仏教なのです。怒らないということこそが仏教なのです。みなさんも今日から、何があろうと怒ったならば、とても恥ずかしく思わなければなりません。そして、それが自分を愛するということなんです。もし憎悪心を起こし、憎しみを起こしたとしたらですね。どのようになりますか?ものすごい自己虐待をするということになるんです。自己虐待を…。ご存知なかったでしょう?怒るからこそ気分がすっきりすると思っていたでしょう?自己虐待をするっていうことなんですよ。『六祖壇経』にその言葉が出てきます。「他人の過ちを見ず、自分の過ちを見よ」と。

これは単なる世俗の上品な言葉ではありません。その言葉はいくら私に不利益を与え、私を虐待するとしても、私がそれを、それはその人のことであり、私がそれを受け取るか受け取らないかは、切実にそれは私の力だということなのです。だからこれが自分を愛することなのです。仏教について、もしかして誤解されている方がいるのではないかと思い話をするのですが、絶対、自己犠牲ではありません。仏教を自己犠牲であると言う人も多く、またそのように考える方も多いですが、仏教は絶対、自己犠牲ではありません。自己愛なのです。ですから自己を愛することができる人であればこそ、憐れんで他の人を愛することができるんです。だから他人を助けることが自分を助けることであり、自分を助けることが他人を助けることなのです。私が本来、仏について効能を説明しているのです。

だから、東南アジアやチベットの仏教とは韓国仏教が違う点は多いのです。我々が本来、仏であり、他でもない、ひたすら真理なのです。(月を指す)指は、その真理を見よと、ただ指し示しているそれは、事実でもなく真実でもなく、ある意味では、それは虚構なのです。月だけが事実なのです。

もう一つ例を挙げて説明すると、お釈迦様が道を歩いていると、<糞を汲み取る人>が、お釈迦様のところにやってきました。その人はカースト制度の四姓の中で一番下の卑しい人でした。だから、そのような偉大なお釈迦様に会うことを、とても申し訳なく恐れ多いと思っていました。お釈迦様に会うことを、楽しく、うれしく、光栄に、そのように思わなければいけないのに、その人は申し訳なく、恐れ多く、つらく、そのように感じたというのです。それは、なぜそうなのかというと、「お前だ、私だ、貴い、賎しい」。そのような両辺で思考をしているから、それも自己虐待をしていることなのです。この中にも我々が間違った考えをして、自己虐待をものすごくして我々は生きています。比べる心がまさしく、お前だ、俺だ、という立場からするものなのです。だから、その<糞を汲み取る人>も貴賎とお前だ俺だということから自己虐待をしているということなのです。だからお釈迦様に会うことが、そのように苦しかったのでしょう。だから逃げたのでしょう。だから後で、お釈迦様がついて行ったのです。(するとそのときになって、お釈迦様があれこれと、お釈迦様が自分を苦しめる。いや、そんなに偉大な方がなぜ私をあれこれ苦しめるのか。理解できない、これなんです)

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