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サンガはどのようなものであったか (二)

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 また、サンガには全員が平等な資格で参加して、少数意見が最大限度に尊重される議決方法を取るから、非常に民主的な組織であったと考えられている。しかしながら常に全員一致を要求されるような組織は現実的に存在しうるであろうか。人が3、4人集まれば、なかなか話がまとまらないのが常であるから、それが15人もの、あるいは100人もの大集団になればなおさらである。

 ということで、今私のもっているサンガのイメージは次のようなものである。

 仏教には今風の「教団」というような概念は存在しなかった。それは別に不思議なことではなく、ヒンドゥー教でもイスラーム教でも、そういうものは存在したことはない。いわば精神的な紐帯によって繋がっているだけの話である。

 お釈迦さんが亡くなったときに、主立った弟子たち500人が王舎城というところに集まって、お釈迦さんの教えをまとめる会議を行った。これは「結集(けつじゅう)」と呼ばれている。要するに「お釈迦さんの教えとはどういうものであったか」ということを議題にした羯磨を行ったわけである。これは今流にいう「仏教教団」としての行事で、したがって全仏教徒を拘束する効力を持っていたように考えられているが、実はそうでもないらしい。

 プラーナという仏弟子があった。これも500人の弟子たちを引き連れて別のところを旅行してしたので、この会議のことを知らなかった。そこでこの会議に出席した比丘たちが、会議で決めたことを受けてほしいと言うと、彼は「それはよいことをしました。しかしながら私は自分がお釈迦さんから直接受けた教えを奉じていきましょう」と言って、これを受け入れなかったとされている。

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 仏教学界ではサンガには「現前サンガ」と「四方サンガ」という二つの概念があって、「現前サンガ」が先程の定義に見られるサンガで、「四方サンガ」が仏教教団に相当するという感じで受けとられている。しかし実はパーリ語という言葉で書かれた律蔵には「現前サンガ」という熟語も、「四方サンガ」という熟語も存在しないし、だからいかなる『パーリ語辞典』にもこの見出し語はない。見出し語がないどころか、複合語としても上がっていない。だからサンガは、「界として結界されたある一定の地域の中に住する、布薩や自恣その他の羯磨を共に行う4人以上の比丘、あるいは比丘尼の集団」という定義があるのみのようである。

 したがって結集も、「王舎城を界とする500人からなるサンガが、お釈迦さんの教えとはどういうものかという議題で羯磨を行った」ということになる。もちろんこの会議に出席した者は、この決議事項に従わなければならないが、この会に出席していない私たちは、必ずしもそれに絶対服従をしなければならないということはない。それを尊重するかしないかは、私たちの信念に委ねられているということである。このとき編集されたとされる仏教の聖典が、397年のカルタゴ会議によって編集されたキリスト教の「聖書」のように、唯一絶対のものとしての権威を持たないのはこういうところに由来する。

 そしてこの結集は以前にこの欄に書かせていただいた摩訶迦葉という人が主宰した。その時にも書いたように、摩訶迦葉はお釈迦さんから「半座」を分けられたほどの人であるから、仏弟子たちの中でも特別の人であった。この会議は終始この人のペースで進められ、むしろ否やを言えない空気にあった。

 しかし普通の場合のサンガは和尚とその弟子たちから成り立っていて、弟子たちは和尚の言うことに逆らえない立場にあった。全員賛成というのは、民主的な手続きに見えて、実は指導者の意見に自由に反対ができない、したがって和合を乱れさせないための装置であったものと考えられる。

 このサンガに争いごとが起こったときには、多数決で決択をつけることになっていた。しかしこの多数決は民主的に構成員の意志を決定するシステムではなく、あくまでも紛争を解決する方法であったから、指導者の思う方向で多数意見が形成されるように、根回し・談合を行うことが義務づけられていたし、どのような投票形態を取るかも指導者に委ねられていて、指導者のみは誰が賛成票を投じたか、反対票を投じたかを知りうる立場にあった。

 例えば年配の比丘たちが指導者の意見に賛成で、若い比丘たちが反対の場合は、公開の席で投票が行われた。若い比丘が年配の比丘の目を気兼ねして、反対票を投じにくくするためである。もし逆に若い比丘たちが賛成で、年配の比丘たちが反対の場合は、誰がどの票を投じるか分からないように、別室において行われた。しかしこの場合も指導者が投票用紙を受けとるので、反対者を説得することができた。できたというより、それは指導者たる者の義務であったから、もしその義務を果たさないで紛争を解決できなかったら、指導者は罪になった。

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 ちなみに、この投票用紙にあたるものは「籌(ちゅう)」と呼ばれる竹べらで、白かあるいは黒に塗られていた。ちょうど今の日本の国会議員が投票する白い板、青い板と同じようなものである。そしてこの多数決が、民主的な議決方法でなかった最大の証拠は、投票の結果が指導者の意に沿わない場合は、その議決を反古にして、もう一度やり直さなければならないことになっていたということである。やり直す場合には、隣のサンガから賛成票を投じてくれる比丘をスカウトしてきて、多数派工作をしたうえで再投票をしたのである。

 比丘・比丘尼たちの集団は究極的な悟りの境地を獲得するために修行する集団であって、新しい建設的な事業を展開するための組織ではない。何よりも平穏無事に運営されることが第一目標であった。また釈尊時代の仏教のサンガは出家集団であって、生活の資具のすべてを世俗社会の寄進にたよっていた。だからサンガのいざこざは、この寄進の道を危うくすることにつながった。「和をもって貴しとなす」がサンガの至上命題であったが、それにはこういう背景があったのである。

 サンガがこういう特殊な集団であったことを念頭におけば、そのイメージは今まで考えられてきたのとは、相当に違うものになるのではなかろうか。

森 章司(東洋大学教授)より

http://www14.plala.or.jp/hnya/tokubetukikou-.html から

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