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菩提心 (一)

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1. 読経後の回向で、「同発菩提心」と唱えているようですが

おっしゃる通り、法要などでは読経の後、念仏・和讃と進み、最後の回向ではこの文をよく用います。原典は善導大師の『観経疏』玄義分 巻第一 帰三宝偈の最後の方に出てきます。

願以此功徳 平等施一切

同発菩提心 往生安楽国

願はくはこの功徳をもつて、平等に一切に施し、

同じく菩提心を発して、安楽国に往生せん。 『観経疏』 玄義分 巻第一 帰三宝偈 より

真宗では「菩提心」を否定的に考えているのではないでしょうか? 正像末和讃では、

「大菩提心をこせども…流転せり」となっています。

ここで質問に引かれてみえる正像末和讃は——

三恒河沙の諸仏の
出世のみもとにありしとき
大菩提心おこせども
自力かなはで流転せり

『正像末和讃』 三時讃 (一七) と推察します。

この和讃には完全に相当する文意はありませんが、全体において道綽禅師著『安楽集』によったものと考えられています。

一に延促を明かすとは、ただ一切衆生苦を厭ひて楽を求め、縛を畏れて解を求めざるはなし。みな早く無上菩提を証せんと欲せば、先づすべからく菩提心を発すを首となすべし。この心識りがたく、起しがたし。たとひこの心を発得すとも、経によるに、つひに、すべからく十種の行、いはゆる信・進・念・戒・定・慧・捨・護法・発願・回向を修して、菩提に進詣すべし。しかるに修道の身相続して絶えずして、一万劫を経てはじめて不退の位を証す。当今の凡夫は現に信想軽毛と名づけ、または仮名といひ、または不定聚と名づけ、または外の凡夫と名づく。いまだ火宅を出でず。なにをもつてか知ることを得る。『菩薩瓔珞経』によりてつぶさに入道行位を弁ずるに、法爾なるがゆゑに難行道と名づく。

『安楽集』 巻下 より

billet-1.gif▼意訳(意訳聖典より)

一つに、延促[ちそく]を明かすとは、すべての衆生は苦を厭[いと]うて楽を求め、迷いをおそれてさとりを求めないものはない。みな早く無上仏果 [むじょうぶっか]を證[さと]ろうと思うならば、まず菩提心をおこすことを第一とせねばならぬ。ところが、この心は識[し]りがたく、起こしがたい。たとい、これを起こしても、経(菩薩瓔珞本業経)に依[よ]れば、ついに信・進・念・戒・定・慧・捨・護法・発願・回向という十種の行を修めて、仏果まで進めねばならぬ。ところで修道する者は、絶えず相続して一万劫を経てはじめて不退の位を證[さと]るのである。今頃の凡夫は、現に信想[しんそう]の軽毛 [けいもう]と名づけ、また仮名[けみょう]の菩薩ともいわれ、また不定聚ともなづけ、また外[げ]の凡夫ともいい、まだ迷いの火宅[かたく]を出ておらない。どうして知られるかというと、≪菩薩瓔珞経≫(菩薩瓔珞本業経)に道を修める行位[ぎょうい]をくわしく述べられてあるのによれば、必ず次第階級を経なければならぬ道理であるから、難行道という。

親鸞聖人は『顕浄土真実教行証文類』化身土文類六(本) 聖道釈 三時開遮 において、この後半部分、「しかるに修道の身相続して絶えずして」以下を引用されてみえます。

内容をうかがえば——菩提心をおこすことが第一だが、これは識り難いし、起こし難いし、起こしても一万劫を経てようやく正定聚不退の位に至ることができる。いまどきの人は信心が毛のように軽く、名ばかりの菩薩・仏教者で、「外の凡夫」であり、煩悩の炎に焼かれながらそこから出ようとしない。菩提心を起こし仏果を得るのはとても難かしい行である。—— という訳ですから、確かに自らを凡夫の衆と心得る真宗教団では、この菩提心が仏果に結びつくのは絶望的な難行であり、<「菩提心」を否定的に考えているのではないでしょうか?>との疑問はもっともなことです。

ちなみに「外の凡夫」とは「外凡」のことで、自己を問題とせず外ばかり責めたり憧れたりする凡夫のことです。大乗仏教では十信以下の状態をいい、これ以後の「内凡」・「内の凡夫」とは峻別しています。

しかし時として、どちらも単に「凡夫」と総称してしまいがちで、教学に混乱を招く原因となっています。つまり、「信心を得ても凡夫であることには変らない」という言葉のみに固執し、この重要な「外」と「内」の違いが語られず、凡夫の内容が激変していることを積極的に述べてこなかったきらいがあるのです。

この言葉が、四十八願文などの「正覚」と同じ意味(訳語の相違)とすれば、法蔵菩薩などのように自力で悟りに至る者が用いる言葉に思えます。

法蔵菩薩については、単に自力というだけではなく、一切衆生の済度を願っての修行ですから、私ども個人と比較はできませんが、それでも五劫という時を経ての願成就、十劫(永劫)の寿を保つ仏のはたらきを憶いますと、私どもの起こそうと努力する菩提心はとても仏果を得るとは思えません。「それなのに・・・」という疑問はよく分かります。

2. 法話で、「お浄土に往生する」と説明されていましたが、「浄土」は「世界」または「仏国土」を意味する普通名詞ではないでしょうか?

正信偈では、「諸仏浄土」の句があります。阿弥陀如来の浄土の意味では、「安楽国(大経)」「極楽(観経、小経)」の方が適切と思います。

この疑問もよく分かります。「浄土」は阿弥陀如来に特定された言葉ではありません。

正信偈にも——

法蔵菩薩因位時 在世自在王仏所
覩見諸仏浄土因 国土人天之善悪
建立無上殊勝願 超発希有大弘誓

法蔵菩薩の因位のとき、世自在王仏の所にましまして、
諸仏の浄土の因、国土人天の善悪を覩見して、
無上殊勝の願を建立し、希有の大弘誓を超発せり。

とあり、法蔵菩薩は在世自在王仏の導きで諸仏浄土の視察を行なっている旨が語られています。

この疑問点にも、後ほどお応えさせていただきます。

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