何年か前、 ローマ法王が、東洋の司祭たちが東洋的な修行をするといって、大いに怒られたという、そのような記事を読んだことがあります。最近のある新聞を見ると、「修行のブームが起きている」、「いまや修行の時代が到来した」、そんな表現を使っているのも見ました。ともかく、修行をするということは、仏教者であれ、非仏教者であれ、個人的であれ、社会的に、また人類の将来のために励みになり望ましいことだといえます。人間が人間らしく生き、人類社会が幸福であり、住みよい社会になれば、修行の時代、正法の時代、真理の時代が来なければならないと考えます。人類の将来を深刻に考え苦悩する、そのような人であるほど、仏教の期待が大きく、その期待に応えるだけの中心にすっくと立っていることが、まさしく禅仏教であるといえます。禅をする、修行をする、道を修める、心の修行をするということは、同じ言葉ですが、心を磨くということなのです。
よく、工夫という表現をしますが、工夫の中の工夫がまさしく心の工夫です。最上の工夫が心の修練なのです。だから、このことは、してもよく、やらなくてもよい、というものではなく、必ずしなければならない、必須のものであるというのが心の工夫なのです。
釈尊は45年間、8万4千の説法を説かれました。とても深遠で膨大です。
その8万4千の説法を一言で要約すれば、心を修めて仏になれ、という言葉です。そこで昔の祖師たちや、釈尊や、善知識たちが、その心の工夫にすべてのものを捧げたのです。
だからみなさんの全てのものを捧げて、この工夫をすれば、本当に人生の生きがいと真正さ、そのような幸福を感じることが出来ます。よく、普通の人を言うときに、無明衆生である、迷っている衆生である、そんな言葉を使います。すなわち、心が暗く濁った、そんな衆生であるということでしょう。その濁った心を、よく梅雨の季節に雲がかかり太陽が見えない、そのように暗く、濁った、そんな空に喩えます。また、夜に喩えたりもします。そのように暗く、真っ暗な無明の世界がまさに我々衆生の世界なのです。ところが、仏の世界はとても明るく、明るい光明の世界がまさしく仏の世界なのです。この衆生は、そのように心が暗いために、きちんと見ることが出来ず、見ることが出来ないために知ることが出来ず、判断が曇るのです。だから、何事をしても難しくやっても苦労するのです。いつも苦しさがついてまわります。だから衆生の世界は苦痛の海だ、そのように言います。(07:15)
だから心眼が開いていないため、智慧が無く、ある方は「職場に行ってきます」、「学校に行ってきます」と言いながら出かけ、死体になって帰ってくることもあります。それは自分の将来を予測することが出来ないからです。そのように暗いために、一寸先も見通すことができないのが、まさしく衆生の世界なのです。
よく、人類は万物の霊長であるといいます。自らとても堂々としていると大声で言います。しかし光明の世界、仏の世界から見れば、目の不自由な人と同じです。目の不自由な人と一緒なんです。だからとても弱く、哀れに見るほかないのが、まさしく衆生なのです。だから仏の立場からは大慈大悲を注ぐしかないのです。目の不自由な人が望むことは何でしょうか。お金でしょうか?名誉でしょうか?それでなければ、権力でしょうか?もちろん、お金も名誉も権力も必要です。しかし、最も必要なのは目が開くことです。
この目の不自由な人の一生の願いは目が開くことなんです。そのように、われわれ普通の人間に最も必要なものは何でしょうか。まさしく心の目を開くことです。だから事物や人間をきちんと見て、正しく生きていくことが、最も大きな夢です。しかし、普通の人は食べて生活していくことが難しいため、心を磨くことができずにいますが、この心を磨くことは時間さえあれば、少しでも生じたらやらなければならないのが、まさにこの心の修行であるといえます。
それでは心はどのように磨くのでしょか?心は形がありません。心は物体ではありません。だから物体を磨くように、雑巾で何かを磨くように、磨くことはできません。心は暗い心、濁った心を澄ませ、明るくすることが心を磨くということなんです。
それでは心を曇らせている犯人は何か、根本原因は何か。まさしく煩悩妄想です。その煩悩 妄想のために、苦しく、あえぎ、不安であり、そわそわしているから心が曇るのです。
だから一寸先も見通すことができない、そんな駄目な人になっているということです。
この煩悩妄想を無くする作業は何か。それがまさしく修行です。それを喩えると、この心をあの海に喩えることができます。海がとても静かな時には、そのようにきれいです。数10メートル下まで見えます。でも、波がたち台風が吹いてくる時には、とても濁ります。1メートル下も見えません。でも、とても静まれば、とても澄んで明るいでしょう。そのように、人の心はとても静かなものです。すなわち、一切の煩悩妄想をすべて除けば、とても澄み渡り明るくなります。明るくなれば悟ります。だから昔の祖師は、心を磨くのに最もよい方法は何か?心を休ませよということです。心を空にしろということです。心を静めよということなのです。すなわち、空ける、休む、落ち着くという言葉は、一切を考えず、一切の心を作用を持つなということなんです。だから昔の祖師の中には、千回休み、一万回休めと言っています。千回休み、一万回休め。休み、休み、休んで、また休み、また休めということです。
仏の言葉には、休めば悟るとあります。休めばまさしく悟るんです。根本姿勢に正しく現われます。昔の臨済禅師という偉大な禅師の言葉に「休めば正に清浄法身である」というのがあります。休めば、その場がまさしく仏の場なのです。だから休み、休み、また休み、また休んで大いなる無心の境地、真に休む場がまさしく仏なのです。
その場をよく、涅槃を成就するといいます。涅槃とは、大きな涅槃とは、大きな薪の火がめらめら燃えるように、全ての煩悩妄想がわっと沸き立つように、この薪の火がすべて消えて、とても静かな、そんな状態になることが、一切の煩悩妄想がすべて無くなる..。その場がまさしく涅槃の場だというのです。その場がまさしく生死が無い場であるといいます。だから生死までも超脱する場であるといいます。(13:44)
昔、無業大達という禅師がいました。その禅師に周辺から、禅師!禅師!説法をお願いします、というので、「おい、この野郎、妄想を起こすな。説法も妄想なんだ」。説法までも考えないほど、妄想を起こさなければ、真に根本自性が現われます。だから工夫をする時には、仏が来れば仏を無視し、祖師が来れば祖師までも追い払えといいます。
ところで、そのように心を空ずることができれば、どんなによいでしょう? 空ずることができないからくやしいのです(恨めしいのです)。なぜ空ずることができないのか?我々衆生は、心がこの煩悩妄想により、一塊になっています。だから動いたり、口だけ開いても煩悩妄想を起こすしかないのが衆生なんです。
それに加えて最近は小さいときから、すごく教育に熱中します。本当の教育は良いことは良いです。でもあまりにも、度をすぎるほど、目さえ開ければ本を見、本から得た知識によって世の中を生きていきます。この世の中を動かしているものも全て知識です。だから現代の人間は、知識によって重武装するように生きているのが現代人なのです。この知識が牛耳っているのが最近の世の中なんです。その知識も純粋な根本自性から見れば妄想です。だから人間が知識のおかげでとても豊かに、とても便利な世の中を生きていますが、人間がだんだん小粒になっています。だから、より不幸であり、よりつらくなります。これはアイロニーというほかありません。だから現代人であればあるほど、知識人であればあるほど、修行を必ずしなければならない修行です。現代人には必須です。しなければ自分の損です。
この修行には様々な方法がありますが、その修行法の中で最上はまさしく話頭参禅であるといえます。この話頭とは何でしょうか?問題です。参禅者が打破して解決していかなければならない問題です。話頭は昔の祖師たちの言葉です。普通の言葉ではなく、とても偉大な言葉なんです。
この話頭禅は、話頭はとても偉大な説法です。この三世の様々な仏、歴代の祖師たちの、その中身が真珠が入っている説法中の説法が話頭です。だから、その話頭を悟れば、まさに仏の境界です。廓徹大悟して究竟地まで行くことができるのが、まさに話頭なのです。だから話頭がいい、いいというのが、そんな확철大悟、仏の境界まで行くことができるのが話頭だからです。
ところで最近、その話頭に対する批判的な話をするといいます。善意の批判ならば本当によいです。でも話頭を知らず、話頭について何だかんだと話をする方々が多いといいます。話頭は必ず体験をしなければ、体験も夢中の一如、夢の中でも如如なる、そのような状態まで体験してこそ、話頭が何であるかわかります。ぜーんぜん、体験もしない方が、話頭がどんなものかわからない方が話頭について、あれこれ話をする方がいるといいますが、そのような方はとても遠慮しなければなりません。
この看話禅の優秀性を疑ってはいけません。看話禅はどんなに低く見たとしても最上乗の法であることに間違いありません。最近は多くの修行法がありますが、そのような修行法、新しく生じた修行法などの中で、ほとんどが初歩段階は感じることが出来るでしょうが、深い境界は感じることが難しいです。そのようなこともたくさんあります。ともかく、看話禅は世界の独歩的な存在です。だからここにいる、座っていらっしゃる皆さんも話頭禅をよく継承されて、人類に貢献しなければなりません。
この看話禅が難しい、看話禅をすることが、様々難しい、そんな言葉をいいますが、事実はきちんと指導を受けてよくやれば、そんなに難しいものではありません。現代人にも合わないのが看話禅であるといえます。なぜか?最近の人は昔の人に比べて機根が低いからです。
発心もきちんとできません。信心もきちんとできません。ところが、修行するのに、懇切にやる、そんな考えも起こさず、誠心誠意、精進することもできません。そのような、そんな低い機根で、発心もできない人が、すなわち、懦弱で発心もできない、そんな修行者には支えとなるものが必要です。それが話頭なんです。歩くことができない人には車イスが必要なように、水泳ができない人にはボートがあればこそ川を渡ることができます。前が見えない人には杖が必要なように、現代人が支えとすべき、そんな修行法がまさに話頭だといえます。
とにかく、この修行は「言語道断、心行処滅」です。言葉の道が絶たれ、心の作用が滅するところから発見される道理です。だから必ず善知識の教えが必要なことが、まさしく修行なんです。それでは話頭の修行はどのようにしなければならないでしょうか?
第一には疑情を起こさなければなりません。この話頭により参禅することは、よく話頭を挙す、話頭を参究する、話頭を工夫する、そんな意味で言葉を使いますが、話頭に疑情を起こすということです。つまり、これは何か?どうして無といったのか?どうして麻三斤なのか?といいながら、疑情を起こすのが、まさに話頭参究をするということなのです。話頭の生命は疑情です。話頭はひたすら疑情を起こさなければなりません。よく、念話頭という言葉をいいます。この話頭は考えることではありません。頌話頭という言葉も、あることはありますが、話頭は唱えるものではありません。ひたすら疑情を起こさなければならないのです。疑情は話頭を見る道しるべです。疑情のない話頭は話頭ではありません。話頭はひたすら疑情を起こし、大きく大きく悟り、小さく起こせば小さく悟ります。疑情が無ければ悟ることはできません。話頭は疑情を起こすのに、とても大きな意味がある、そのように考えていただければよいでしょう。
この話頭は、第二には懇切に参究しなければなりません。懇切に。昔の禅師の言葉に、話頭参究は懇切の「切」の字だけあれば十分だとあります。すなわち、懇切にだけ参究すればよいということです。この懇切に参究するということはどういうことでしょうか?懇切に、とても誠心誠意をつくして参究するということです。切実さとは何でしょうか?しなければだめなように、ひたすらそれだけをというように、必ずやらなければならないというように、そのように切迫した心を持つことが、まさに切実なんです。だから数日飢えた人が、ご飯のことを考えるようにするということなんです。数日間、飢えてみなさい。寝ても覚めても座っても立ってもご飯のことだけを考えるでしょう。この飢えた人がご飯を考えるように、この砂漠のようなところに行き、そんな経験があるかはわかりませんが、この水が無くなりました。砂漠で水がなくなると死ぬということです。そのような、その..。砂漠の旅行者が水が無くなった時、水を考えるように、話頭を参究しろということなんです。だから話頭がとても懇切になって、涙が出るほど、そのように切実に話頭を参究しなければならないのです。
第三には何でしょうか? 話頭は間断なく、休み無く参究しなければなりません。朝に目が覚めるや、夜に寝るときまで、ただ一瞬も逃してはいけません。休み無く間断なく、ずっと参究しなければなりません。うれしいときや悲しいときや、行ったり来たり、座ったり立ったり、 いつどこでも話頭が無くならない様に、そのように参究するのがよいです。間断があると、話頭参究ではありません。少しの時間でも中断すると話頭参究ではありません。話頭は、わずかでも間があったとしたら話頭参究ではありません。だから話頭をされる方はそのする瞬間でも常に忘れずに、少しでも途切れないようにされることを望みます。世俗で生活されるみなさんには、そのようにするのが、少し難しいでしょう。話頭をする時だけでも、すっぽりと、話頭にしびれるように、そのようにしてくれることを望みます。(26:40)だから昔の祖師たちは、「(鶏が)卵を抱くようにしろ」といいました。鶏です。その鶏が、五六月に卵を抱くときは、鶏がすごく暑さを感じるのだそうです。だからすごく暑いときには、そうでなくとも暑いのに、その巣の上に座っている時には、口をあんぐりと(쩍)開けて、ふうふう言うように、そのように座っています。でも降りてきません。どんなに暑く大変か、げっそりします。でも降りてきません。なぜでしょうか?卵を冷まさないためです。そのように卵を冷まさず、つねに暖かい、そんな気運があればこそ、3.7(21日)日になると卵がかえります。この話頭する方たちも、いつもそのように話頭を逃さず参究しなければなりません。
そこにすっぽりとハマるくらい。そのように努力すれば、意外と簡単にうまくいくことができます。だから参禅者は少し粘り強く、こだわりをもたなければなりません。一回参究してだめなら十回やって、十回参究してだめなら百回やって、十回参究してだめなら百回、千回やって、千回参究してだめなら一万回、十万回やって、できるまで継続して、そのようにこだわりをもって努力してこそ真義の突発が容易です。そうすると、話頭参究は熱心にやり、誠心誠意やることが大事です。最善を尽くしなさい。話頭をする時には、全力投球するように、非常な努力をすることがよいです。心の修行は、やるときは誠実に、とても真実に、すっぽりとハマるようにやってこそうまくいき、とても特別な、そのような効果が出ます。そして、そのように誠心誠意、とても真実に、とても大きな心ですれば、意外と簡単にいく修行がまさしく話頭です。昔の祖師たちの言葉に、話頭参究はとてもたやすい(如反掌)。手のひらを裏返すことよりも簡単だというのです。それならば、顔を洗いながら鼻を触ることよりも簡単です。顔を洗ってみると、手に鼻が触れます。それよりも簡単だというのです。つまり、真に努力をして、真に至極な心を出せば、意外と簡単に発悟されるものが、話頭の参究です。
すなわち、心の修行です。そのように休むことが出来るのが、心の修行をすれば、つらさをなくすとか、やったりやらなかったりとか、そうすれば難しくもあり、とてもつらい、そんな修行でもあります。そのように懇切に、とても誠心誠意、間断なく至極にすれば、いつか懇切に挙さなくとも、話頭が懇切に身に付いてくる時があります。すると話頭に本当に疑心が出るのです。それを真疑が突発するということなのです。すると話頭を放り出すことができません。捨てても捨てることができません。行住坐臥、何をしていようが話頭が常に惺惺としてあります。そのように本当に疑心が出ることが、本格的な修行であるといえます。ところで、そのように真の疑が出ると本当に良いのですが。相当数の人たちが、大部分ができるかできないかといいます。話頭が明らかになったとおもったら、またぼんやりとしてきます。熟したと思ったら、まただめになったりします。(31:40)すなわち、基本がとてもなってない、そんな話頭になります。そんな話頭をするので做作話頭だ、無理やり起こす造作疑心だというのです。そのような人は、なぜそのようになるのでしょうか?第一には、発心が駄目な状態で修行をするからです。第二には何でしょうか?信心が篤くないからです。第三には、そのような方は大きな憤心を出さなければなりません。第四には、勇猛にすれば、話頭が本当に 真疑が突発するのが容易です。
①
第一には、どのように発心しなければならないか?この話頭が駄目な人は本人みずからが問うてください。「私に本当に修行をする意志があるのだろうか?」。この修行は心がとても重要です。どのような心持でするかがとても重要です。すなわち、やりたくて、とてもみずからが真実になって、真心をもってやらなければなりません。この参禅者は発心をしなければなりません。発心とは何か? 発菩提心を縮めた言葉です。菩提を必ず成就しなければならないという心を出すことが発心です。その菩提とは何か?見性成仏です。自分の本性を真に見て、私も仏に必ずならねばならないという、そのような偉大な心を出すことが、正しく発心です。この発心を必ずしなければなりません。だから参禅者は、このこと、参禅することが最も大事であり、最も重要な事なのです。そのような考えをしながら、ひたすらこのことだけであり、どんなことがあろうとも、どんな場合であろうと、自分のすべてのものを捧げても、命を懸けても、必ず成就しなければならない。そんな偉大な心を出すことが発心なのです。そのような偉大な心を出すことが、とても重要です。だから昔の祖師の言葉に「心を悟るときには発心より優先されるものはない」とあります。そうならば、話頭するということを嘆かずに、発心ができないことを恥ずかしいと思え。発心さえできれば、心の悟ることは問題ありません。
②
第二には何でしょうか?話頭と仏性について確信をもたねばなりません。完全に信じる心を持たなければなりません。すなわち、自分にも仏性がある。私も今生にはこのていたらくであるが、本来は仏だ。本当のところは仏と同じ考えをしなければならず、仏者は何か?この話頭を参究すれば、私も悟ることができます。この話頭は悟りへと行く最も重要な、そんな修行法であることを徹底して信じ、完全に信じなければなりません。話頭については全く少しも分別する心や思量する、そんな心を出さないようにしなければなりません。道は信に始まり、信に終ります。すなわち、道を修する人は、常に信が離れないようにしなければなりません。真正な信により仏法の大海を渡ることができます。この世の中の人にとっては、お米が糧食ですが、道を修する人、修行をする人は信が糧食と言いますよ。糧食がなければ飢え死にするように、信のない人は修行者ではないといえます。
信は暗室で写真を現像するのに喩えることができます。このごろは機械で写真を現像しますが、昔は暗室で現象をしました。わずかでも光が入って来ると写真がまともに出ません。そのように修行は信がわずかでも足りなくても修行らしい修行はするのが難しいです。だから信は木の根のようです。根が丈夫にとても長く、太く私は木が搖れることがなしに屈せずに大きく育つように信が大きければ大きいほど修行の実も大きくなることができます。
③
第三には何か?話頭がだめな人は大きな憤心を出すことを望みます。憤りの心、なぜ自分だけがだめなのか?なぜ自分だけができないのか?歴代の祖師と天下の善知識たちが、すべてやってきたのに、なぜ自分だけがだめなのか?ここに信者さんが多くいらっしゃいますが、信者といっても駄目なものではないのです。女性だといってもだめなことはないのです。道には僧俗がないのです。男女の差別はありません。誰でもやることができるのが道なのです。ところで、なぜ自分だけがだめなのか?そんな、その大きな憤心を出して、真剣に、真に努力をすれば、さきほど申し上げたように、以外と簡単にいくものが、まさしく参禅なのです。だから昔の祖師たちは、話頭がだめで、修行が駄目な人を何といったでしょうか?米の値段もわからないといったんです。米の値段もわからないと。そして、昔の、ある僧侶は夢中一如がだめなら人間の扱いをしないという、そんな人がいました。すなわち、それほど参禅者は常に話頭がなければならず、真疑が突発して本当に惺惺となればこそ、米の値段をわかる、人としてのふるまいをするという言葉があるほどです。おそらく、ここで参禅している方の中に話頭が何か知らない方はいらっしゃらないと思います。どのように疑心するか?疑情をおこす方法を知らない方もいらっしゃらないでしょう。ところで、なぜ駄目なんでしょうか?しないからそうなんです。真の努力をしていないから、そうなんです。この修行は真に努力をすれば、誰でもすることができる修行です。だから仏の弟子の中でシュリーパンダカがいました。本当に低能児だったんです。このできそこないの中のできそこないに対して、仏が何をさせることができたでしょうか。「お前、これをしなさい」といっても、ぼーっと立っているだけの人だったんです。「なぜお前は立っているのか」というと何をするのか、何をしようかと、自分がしていたことも忘れてしまう人だったんです。だから仏がとても哀れんで、「お前はほかのことは一切やらずに、掃いて磨くこと、掃いて磨くことだけをやりなさい」といいました。ところで、掃いていると磨くことを忘れ、磨いていると今度は掃くことを忘れてしまい・・・。そんなにもできが悪く、本当に低能でしたが、努力に努力を重ね、心が悟ったのです。だから阿羅漢果を得たといいます。経典でみると、仏がシュリーパンダカをとてもほめる、そんな場面が多く出てきます。そのような方たちも悟ることができるのです。やらないから駄目なんです。やればできます。ともかく、話頭が駄目な方は、「成仏」という二文字を額に書いて貼っておきなさい。書いて貼って、真に努力をなさい。大きな憤心を起こして、ひたすら話頭!、話頭!、話頭!というように、努力して見られることを望みます。そうすれば、話頭がよくできないという方は、ふだん修行をする時、何となくぬるま湯につかっているように、やったりやらなかったり、そんな風にはやらず、きちっと勇猛精進をしなさい。話頭の真正なる疑情が起らず、その做作するように(42:45)つらいときには勇猛にしなければなりません。特に、その参禅者が老弱者だとか女性だとか、自分で考えて機根が低い、自分は発心ができない人だ、そのような煩悩妄想を多く起こす人であればあるほど、少し勇猛に精進されることを望みます。よく、勇猛精進というと、うつらうつら居眠りしながらやります。寝ないでやるのが勇猛精進だといいますが、寝る時には寝、やるときには勇猛にやります。だから勇猛精進するという方は居眠りも無くさなければなりません。(43:24)昏沈や散乱にも陥らないようにしなければなりません。そうすれば精神状態はとても生気があります。目はギラギラして意志がはっきりとしなければなりません。どんな困難やどんなつらさも克服することが意志と勇気を持った、そのような人がまさに勇猛精進する方だといえます。だから、この修行を真にやりたいという心を出す時には、勇猛に命さえも考えないほどに、努力されることを望みます。
有名な鏡虚禅師が、あのソサン西山に行くと、ちょっとした庵子があるのですが、その庵子で一年間、勇猛精進したことがあったそうです。正月の一日に始めて12月の大晦日に廻向をしたといいますが、一年の間ひたすら供養だけを行なって、おきてこないんです。どれほど熱心にやられたか、それでも人間なのかというほど、そのように努力されたのです。一年間、一度も着替えをせずにですよ。お風呂にも一度も入らず、お風呂はもちろん、洗顔も一度もしなかったんです。そのうち、髪も剃らずに伸び放題で。ともかく、ひたすら食事と坐ること以外には、小便やとても簡単な用事以外には、ひたすら努力をされたのです。
その夏のことですが、ずっと精進していると、蛇のアオダイショウが、部屋ににょろにょろ入ってきて、禅師は坐っておられたんですが、足に乗り背中の上でしばらくじっとしていたそうです。それを当時、満空禅師が小さい沙弥の時でしたが、見ると、とても動揺しながら、「禅師、禅師、蛇が上っています」と。でも禅師は微動だにもされなかったそうなんです。そしてしばらく蛇がじっとしていて、のそのそと前に降りてきて、行ってしまったそうです。そして後日には、そのような時も微動だにせず精進できなければならないという、そのような言葉をおっしゃったそうです。ともかく、そのような、少しそのように偉大な心を出し、そのようにすれば、本当に探すことができる修行が、まさにこの修行であるといえます。
5番目は何でしょうか?修行を智慧深くおやりなさい。とても智慧深く。すなわち、適切に、とても適切にやってくださいということです。適切に、智慧深くという言葉に、全ての智慧が含蓄されています。だから智慧롭게、きちんとやれば菩提をなし、見性成仏をし、そうでなければ生死を免れることも難しいです。この参禅者が注意することは、真の疑いが出たとしても、話頭が実参に入らなければなりません。そうすれば、もっと至極に参究し、少しずつ成熟していかねばなりません。話頭の境界がとどまっていてはなりません。継続して深まり成熟していかなければならないのです。
第2には何でしょうか?話頭に没入して、惺惺と、そして寂寂とならなければなりません。すなわち、惺惺と寂寂がつりあわなければなりません。すなわち、バランスが合わなければなりません。やってみると、寂寂をよく思い、寂寂にあまりにも陥ると、話頭を逃し、無気力に陥りやすくなります。そうすると、惺惺を超越したといっても惺惺が偏ると、散亂となります。すると、煩悩妄想が起りやすくなります。話頭は惺惺であれば、しながらもとても寂寂とし、寂寂でありながらも、とても惺惺であり、惺惺と寂寂がつりあっていてこそ悟りに近くなります。この話頭は、悟るときまで一瞬たりとも話頭を逃さないようにしなければなりません。継続して鶏が卵を抱くように、水が流れるように、そのように、逃さずに参究しなければなりません。そうすれば、話頭がとても 惺惺とし、体がとても 軽く、すごく平安になり身軽になる、つまり、夢中の一如のようになればですね。智慧が生じます。すなわち、心が澄み、智慧が生じます。経典のようなものは、普段はよく理解することが出来ない、そんな経典を見ると、そのまま「すっと」入ってきます。語録も全く理解できず、堅苦しいもの、そんな語録も、読んでみると、さっと腑に落ちるようになります。そんな時、ある人は「ああ!私は悟ったんじゃないか?もうおしまいじゃないだろうか?」。そんな考えをしながら、その程度になれば、体得したことをしゃべりたくなり、口がむずむずしてきます。どこかへ行くと説法したくなり、なぜ説法をさせてくれないのか、そういうふうに考えるようになります。だからどこかに行くと、わかった、悟ったと言いながら、大声をあげることもあります。そんな時でも、少しの満足もせずにですね。そうなればなるほど、より熱心にし、より一生懸命、努力しなければなりません。そのように智慧が少し生じたと言って悟ったという考えをするのは、蛍の明かりで須弥山を燃やそうとすることだ、と考えればよいでしょう。また、話頭が夢中一如の境界が過ぎると、とても神通力を得たような、不可思議な、そんな境界が生じます。
ある日、修行をしていると、急に壁が無くなるんです。外の情景がすべて見えて(50:10)細かく集中するので、もっとはっきりと見えるんです。近いものだけでなく、何百メートル、何十里、何百里の外も見えるんです。そんな時は普通、自分を抑制するのが難しいです。ここ曹渓寺の法堂からも仁川の海や、あの水原や、大田も、いくらでも見ようと思えば見ることが出来るんです。ともかく、そんな、その不可思議な神通力の、そんな境界が現われます。それは何でしょうか?修行がうまくいって、識が澄んだということなんです。遠近の距離の遠い近いに関係なく、高低に関係なく高さ低さに関係なく見ることが出来る神通力の、そんな眼目が生じるのです。だからといって少しも動き回る心が無くならなければなりません。そのころになると、普段、胃腸が良くなかった、そんな方々が山盛りのご飯を食べたとしてもきちんと消化できるでしょう。体が悪い方でも、一日通っても疲れることがないでしょう。
この間、体の調子が悪く虚弱で、いつも薬を持って歩き、病院にも出たり入ったりした、そんな方ですが、いつのまにか体がとてもよく、健康な体になったというのです。そのころになると、すれ違う人だけ見ても、「ああ、あの人は何を考えて、どこにいくのか」。そのように自分なりにわかるようにもなります。そうかと思うと、普段、難しかったことや、つらかった、そんなことも、そのままなるようになるようです。もっとひどくなると、生死までも自信満々な、そのくらいになります。そのように、神通力を得て、少し不可思議な、そんな力が生じたり、そんな眼目が生じます。そんな時も、少しでもそこに陥ったら駄目です。そこに陥ると、陥って楽しみ、それを使っている途中に見ると、きちんとしていた修行がぼんやりしてきます。
そんな境界は澄んだ人や、悟りへと向かう過程で感じる、そんな枝葉的な、そんなことなんです。そんなところには、すごく警戒をして、そんな時は話頭をもっと熱心に、もっと至極に、きちんと整えると、より深い、そんな感じを感じることができます。
話頭がもっときちんとなって、とても惺惺寂寂であるときに妙なる法悅を感じます。そういう気分を感じます。楽しいと言う事も出来、うれしいと言う事も出来るとても妙なる、言葉や文字で表現することのできない、そんな気分を感じます。そんな、ある気分を感じるんだそうです。もっと安定をさせ、もっと至極な心で、もっと努力してこそ、真に深い境界を感じることができます。普通はその..。良い時には、どんなに良かったか、自分も知らずに、わっと大声が出、そうかと思うと、ぴょんぴょん跳ね回ったりもするという、そのように気分を抑制することが難しい状況までもやってきます。そんな気分の極致が何でしょうか?まさに極楽です。心の中に、修行の中の明らかな極楽は感じることが出来ます。仏の言葉には、我々が住むこの娑婆世界から西方に10億国土を過ぎれば西方淨土・極楽世界があるとおっしゃいましたが、そんな極楽世界もありますが、皆さんの心の中に、皆さんの修行の中のすなわち話頭の中でも、いくらでも極楽を感じることができるのです。
そんな極楽までは、必ずしも感じることができなくとも、心の平和を必ず体験なさってみてください。これは初步の段階で感じることができるでしょう。心がとても平安で、全く煩悩妄想が無くてですね。いつも楽しく気分がよい状態、そんな状態までだけ感じて見られても、曹渓寺に来るな来るなといわれても、来ざるをえないのがまさに仏教なんです。そんな気分、そんな平和、そんな法悅、そこでは人生の真正な幸福と生きがいを感じることができます。
ともかく、参禅はうまくけばいくほど、続けなければなりません。本当にうまくいくほど、いつも謙虚にならなければなりません。謙虛であり譲歩する、そのような心をいつも感じながら、きちんとできるように、もっと努力しなけえばなりません。するともう「いけいけドンドン」になるでしょう。日進月歩するように、日に日に深まっていくことを感じることができるでしょう。ところで大部分の修行者たちが、うまくいけば、それを活用しようと。どこにいって威張って出るようにして、だから修行することが難しく、難しいそのような方たちが多くいます。修行者は常に自分を点検してください。
孔子は「一日に三省す」とおっしゃった。一日に三度までは点検をできないとしても、一日一回は必ず・・・点検をしなさい。私はどのような存在であるか?長所はどこで、短所は何か?是正し補完できる点は何か?毎日、自分を作っていくように、彫刻家が作品を作るように、自分の作品を毎日作っていくように、不足する点は補足してですね。短所や弱点があれば、必ず直して。だから私を昨日よりは今日、より良い人間に作らなければなりません。今日よりも明日がもっと変わらなければなりません。明日よりは、その次の日がもっとよくなるように。だから毎日、変わって行く、そんな人になるよう、そのように自分を常に感心を持ちながら、自分を手のひらを見るように、しなければなりません。自分をきちんと見抜かなければなりません。この修行は、自分との戦いであるともいえます。自分をどのように耐え抜き・打ち勝ち、自分をどのように修めるかによって、修行がうまくいきもし、だめになることもあります。
田舎に最近はそんなことはなくなってきましたが、昔、舗装していない道路、とても、くねくねとした道路で車を運転するように、そんな道路では神経をとても使い、きちんと運転しないと落ちる可能性もあり、故障する可能性もあります。そのようなことは、誠心誠意、そのように運転するように、自分をそのように運転しようと努力しようと、ひたすら努めなければなりません。だから とても智慧深くしなければなりません。…
この修行者は、そのように智慧深く生き、智慧深く自分を治め、そのように努力することにより自分の人生をもう一度、直すことができるのが、まさに修行なんです。よく、「運命も変えられる」と言いますが、人は生まれる時、私は何歳で結婚し、子供は何人生み、どのくらい出世し、お金をどのくらい稼ぎ、そのように一生を過ごしていきます。そして何歳かに行きます。大部分が人生のシナリオに乗って生まれます。すなわち運命に乗って生まれます。その運命を、そのシナリオを新しく書くように、新しく直すように、直すことが出来るのがまさに修行なんです。だから皆さんがどのようにするかによって、皆さんの人生を変えることも出来、駄目な人生を本当にすばらしいものにすることもできるんです。そうすれば、恥ずかしく、つらい、そんな人生をすばらしいものにして、とても堂々と、潔く、どこに行っても本当にさらけ出すことが出来るだけの、そんな人生になることもできるのが、まさに修行なんです。この工夫は、してもよく、しなくてもよい工夫ではありません。必ずやらなくてはならず、必ずやらなければならない工夫が、この工夫であると。そのような考えを常にされながら、この工夫に皆さんの全てを捧げるように、本当に努力をしてみてください。この工夫は、やれ、やるな、という必要がありません。やらなければ自分の損害です。なぜか?人生の真の幸福と生きがいは、この工夫から、道から感じ取ることができるからです。道を離れて人生を語ることは出来ません。人生は努力するだけ、その価値があります。皆さん、発奮してくださることを望みます。
j-theravada.net/kogi/kogi145.html から