唐代の僧、玄奘三蔵は、興福寺や薬師寺などの法相宗へと繋がる系譜に位置づけられ、日本仏教との関わりも非常に大きい。また、『西遊記』の三蔵法師のモデルになった人物としても、よく知られている。出家していた兄の影響で、幼少の頃より仏典に親しんだ玄奘は、十三歳で出家し、その類い稀なる才能と深い学識によって名声を博していた。
玄奘は、一方で、国内で仏教を学ぶことの限界も感じていたため、六二九(貞観三)年、正式な出国許可のないままインドへ向けて求法の旅に出た。この時、玄奘は二七歳であり、当時は玉門関(敦煌の西およそ百キロ)以西の往来が禁じられていたため、国法を犯しての旅であった。
中国を出発した玄奘は、高昌国やサマルカンド、バーミヤーンなどを経由し、ヒンドゥークシュ山脈を越えて、インドに入った。旅の途中、砂漠では飢えや渇きに悩まされ、盗賊に襲われることもたびたびであった。また、玄奘の名声を聞きつけた王たちに招かれたり、その土地の政争に巻き込まれたりして、足止めを余儀なくされることもあった。
インドへ入った玄奘は、ガンダーラやカシミールを経由し、ブッダゆかりの地を訪れた後に、有名なナーランダー僧院(現在のビハール州)へと赴いている。
当時のナーランダー僧院では、仏教以外にも様々な学問が行われており、数千人もの俊才たちが鎬を削っていた。玄奘は、彼らのなかでも誉れの高い戒賢(シーラバドラ)について『瑜伽師地論』を中心に学び、この地で五年間、勉学に励んだ。さらに、その後も南インドへと向かい、シンハラ国(現在のスリランカ)に渡る準備をしていたが、経・律・論の三蔵に精通した僧侶がすでにいないことや内乱が起こったと聞くに及んで渡航を断念し、西インドへと向かっている。そして、再びナーランダーへ戻り、旧王舎城(ラージャグリハ)のジャヤセーナ居士を訪れるなどした後に、帰国を決意した。帰国の途上では、クマーラ王や戒日王(ハルシャ・ヴァルダナ)にも会見している。
インドで集めた経典や仏像を携えて帰国した玄奘は、洛陽で皇帝(太宗)に謁見した。この時、皇帝は、玄奘に旅の見聞録を著すよう勧め、これによって『大唐西域記』が誕生することとなった。この書物は、中央アジアやインドに存在した国々の地理、風俗などに関する非常に詳細な記述を含んでおり、現代の研究者にとっても重要な資料と見なされている。
帰国後の玄奘は、寸暇を惜しんで訳経に励み、インドから将来した六百余部に及ぶ経典を翻訳し、『大般若経』の翻訳終了後ほどなくして遷化した。日本の僧、道昭は遣唐使とともに入唐し、帰国後の玄奘から法相の教義を学んでいる。
玄奘の登場によって、漢訳仏典のスタイルは大きく変わった。そのため、それ以前の漢訳を「旧訳」と呼ぶのに対して、玄奘以後の漢訳を「新訳」と呼んで区別している。「新訳」は、インドで学んだ玄奘にふさわしく、原典に忠実であることを最大の特徴としている。
(文・堀田和義◎東京大学大学院博士課程)