人は自分が良くあるために必ずその世界観を必要とする。もともと日本人はその世界観を仏教に求めてきた。だからその世界観、理想の世界観を表したものとして寺院があった。それは仏菩薩の世界であり、浄土の世界であり、死後の救いの世界であった。インドでもヒンドゥー教もシク教も寺院とはそのような作りとなっている。
本堂は救済のモデルルームであり、人々はそれを見て、何事かを体感して日々の苦しみの中にあっても安心を得て救われていった。仏教のすばらしさに安堵した。そして仏法を学び仏道としての実践の中に人生を位置づけていった。他を助けともに先に進むことを考えた、皆一緒にという考え方があった。
仏教は自らの意志で入門し自分で歩んでいく。自らの行いによって救われていくもの、だから、僧は救いのガイドであり、導き手として存在する。私たちは今、恵まれた国に生きてはいるが、仏教という我々の先祖が持ち合わせていた心臓をもぎ取られてしまったことに全く気づいていない。そこに心の荒廃、修羅のような、餓鬼のような、地獄のような世間が現出している。
信のみでよいとする教えは簡単のようだが、それに徹することはそう簡単なことではない。イスラム教は、信仰と義務を要求するが、それは一生かけて休むことを許されないものだ。一日5回の礼拝と一年一回28日間の断食は、休めば地獄に堕ちるとされる。それは自分で決めることも許されない。浄土教的な絶対的な信も同じこと。
それよりは自分で決めて日々行じて少しずつ上っていける本来の仏教の方が優しい教えといえる。いろいろな意味ですぐれている仏教を自信をもって人々に勧め、教え施して欲しい。草の根レベルでの寺院僧侶の力なくしては仏教の復興はあり得ないのであるから。
仏教は、まさに平和の教えであり、誰にも門戸を開放している。今日でも仏教圏ではほとんど争いがない。世界に目を転じれば、ガンジーさんの非暴力に学んだマーチンルーサーキング牧師を尊敬するオバマ氏は、世界に平和をもたらさんとしているかに見える。そしてまた、鳩山現日本政府も友愛を掲げて人々に優しい政治を標榜している。回りまわって新しい仏教的な発想が世界を変えようとしていると言えよう。
終わり
http://blog.goo.ne.jp/zen9you より