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論説

ベトナム仏教について

Le 2013年5月17日,   ジン

インドシナ半島にあるカンボジア・ラオス、あるいは、近隣国であるタイなどの国々は上座(小乗)仏教の国であるが、ベトナムだけは大乗仏教を信仰する人々が大半を占める国である。この点が決定的に異なっている。おそらく1000年に及ぶ中国の支配を受けた結果、ベトナムは大乗仏教の受容国となったと考えられる。ベトナムが現在のような国域を有していなかった時代には、中部地方を中心に海洋国家であるチャンパ王国が存在した。この国はヒンズー教を国教としていたことようである。そのことは、ミーソン遺跡の存在により確認できる。また、このチャンパ王国の末裔とされる少数民族の中にはイスラム教を信仰する人々もいる。  ベトナム仏教の歴史をごく簡単に紹介すると、ベトナムには当初、インドから仏教がもたらされたようである。しかし、インドで仏教が衰退しはじめると、中国経由で仏教が導入されることとなった。一般にベトナム仏教は臨済宗を基礎とする禅宗だと理解されているが、禅宗と浄土教が交じり合い独自の形を作ったものと理解して良いだろう。という 次の

ユーモア

Zem — « La personne qui est dans l’intégrité fait ce qui est juste sans même essayer. » Tchouang Tseu

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今週の記録

タイの仏教と宗教概説

タイの寺の多くは学校を兼ねている。僧侶は学問知識に造詣が深いことから身近な教師として人々に親しまれてきた。バンコク市内の有名寺院でさえ、すぐ隣りに立派な鉄筋建築の学校校舎を (...)


火生三昧の教儀

山伏問答が力強く開白されると、高い法螺貝の音とともに大勢の兜巾・篠懸(鈴掛)の山伏達が作壇された道場に入場する、色衣をなびかせ、斧・弓・刀等の作法が祈念され中央の盛り上げら (...)


三昧について 

「三昧」とはサンスクリット語の「サマディ」を音写したもので、れっきとした仏教用語である。サマディとは「心を静めて一つの対象に集中し心を散らさぬ状態、あるいはその状態に至る修 (...)


三昧(さんまい)

三昧(さんまい、Samādhi, サマーディの音写)とは、仏教における禅、ヒンドゥー教における瞑想において、精神集中が深まりきった状態のこと。サマーディは三摩提、三摩地などとも音


写真は、デー

par Buddhachannel Asia


Evénements

「京の七夕」オール京都で開催 光るボールで天の川作る

京都府や京都市、京都仏教会などが8月6〜15日に京都市内の堀川と鴨川周辺で初めて開く新イベント「京の七夕」の実行委員会が29日、上京区内であった。参加者が堀川に光るボールを放流し「天の川」を創出するイベントなど詳細計画を決めた。  「京の七夕」は、春の「花灯路」と同様、「オール京都」体制で集客を目指す取り組み。堀川会場(一条戻橋-押小路橋)では、参加者がLED(発光ダイオード)を埋め込んだ光るボールを堀川に放流し「光の天の川」を演出するほか、放置竹林の竹と照明を組み合わせた全長80メートル巨大アーチなどのアート作品も展示する。  また、鴨川会場(御池大橋-四条大橋)では、伝統産業品とLEDを組み合わせた作品展示や友禅流しの実演などを行う。会場周辺の商店街などでも多彩な共催イベントを実施する。  全国から「願い」を集める「絵はがき短冊」も、26日時点で約1万6千枚販売され、夏の新しいイベン 次の

Vidéo du jour

  Yamada Yuji

仏教寺院


ヂィレクトリ

教王護国寺(きょうおうごこくじ)

延暦十三年(七九四)桓武天皇は、動乱の中に奈良から長岡京を経て平安京へと都を遷され、羅城門の東西にそれぞれ大寺を置かれました。 現在の京都は御所をはじめとして大部分が東方へずれてしまっていますが、東寺はもとの場所にそのまま残っていて史跡に指定されています。当初の東寺建立の目的は、平安京の東側を鎮護するということでしたが、本来の宗教寺院として活動を始めたのはそれから後に嵯峨天皇より弘法大師がこの寺院を賜ってからのことです。 このお寺にはアショーカ王以来の伝統に従って、法によって国の平和が護られ、その光が世界の隅々にまでいきわたるようにということと、それぞれの思想が共に侵さず共存していく原理を見出し伝え、共々に力を合わせ実現されていくようにとの大師の願いが込められています。 東寺の伽藍は南大門を入って金堂、講堂、少し隔てて食堂が一直線に置かれ、左右に五重塔と潅頂院が配置されています。塀で区画された境内はそのままマンダラであり浄土です。我々はそこから様々なメッセージを汲み取ることができます。 大師は高 次の

最後の著者

ジン

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Articles et Conférences

龍樹と空(中観)

龍樹  龍樹は西暦150~250年頃の人で、ナーガールジュナ(Nagarjuna)といいます。デカン高原のクリシュナ川流域にナーガルジュナコンダ Nagarjunakonda(ナーガルジュナサーガル Nagarjuna Sagar)という地名があり、そこに有名な仏教遺跡がありますが、そこの出身ともいわれます。(筆者による旅行記あり)  インドのバラモン(婆羅門)の学問をすべて習得したのち仏教に転向して、当時の上座部仏教と初期大乗仏教とを学んで大乗仏教に傾倒し、あまたの諸経典に通暁し、初期般若経典の空をもって大乗仏教の地位を確立した大論師です。 龍樹出現の意義  龍樹の功績はなんといっても、大乗仏教を体系づけ、理論武装して伝統的な部派仏教(小乗)に比肩するに値するものとならしめたことにあります。龍樹の出現がなければ、大乗仏教はただの異端な在俗信徒による俗信に留まっていたかもしれません。 龍樹の教学  龍樹は、仏教の原初からあった「空」の考えかたを、般若経の「空」の解釈により深め体系化しました。その「空」の思想は中観派として後に多大な影響を及ぼします。龍樹以後の大乗仏教は多かれ少なかれ彼の影響下にあり、龍樹は八宗の祖とたたえられます。  ただし、その仏教は在俗信徒をも含めた在家仏教的な初期大乗を、 次の


Textes fondamentaux

上善若水(老子)

『老子』の第八にあります。 上善(じょうぜん)は水の若(ごと)し 水は善(よ)く万物を利(り)して而(しか)も争(あらそ)わず 衆人(しゅうじん)の悪(にく)む所に処(お)る 故(ゆえ)に道に幾(ちか)し 「上善」とは最上の善、ここでは最上の善をそなえた人、即ち道に達した人。「衆人の悪む所」とは多くの人が皆な嫌がる所、即ち水が落ち込む場所。「道」とは老子の教えの中で云う、万物の本源的なもの、即ち万物の真実です。禅で云えば究極の悟りです。 道に達した人は水のようなものです。水は巧みに、すべてのものに恵みを施し、しかもすべてのものと争わず、多くの人々が嫌う場所に好んで就こうとします。まさに水こそ「道」の本源であると云うわけです。「上善は水の若し」とよく政治家が揮毫(きごう)しますが、恐らく政治は弱き者(衆人の悪む所)の味方だと云うのでしょうか。 また、水は四角の器に入れば四角に、丸い器に入れば丸に、自由自在に柔軟性を発揮してそのものに成りきります。しかも、四角から丸に移したからと云って、四角の角は残しません。優れた禅者も何時、 何処(どこ)、何事においても、その場その場の境に成りきって、跡を引きません。怒る時は徹底怒る、悲しむ時は徹底悲しむ、仕事の時は徹底仕事、遊ぶ時には徹底遊ぶ、その辺の消 次の


仏教

ダライ・ラマの誕生

一四世紀、チベットのツォンカの地に生まれた男児は、長じて偉大な学僧となり、出身地に因んでツォンカパと呼ばれた。そして、彼を慕う弟子たちによってゲルク派と呼ばれる新たな宗派が誕生した。この派の勢力が伸びるに従って他宗派、特にカギュー派の支派カルマ派との軋轢が大きくなったが、ゲンドゥンギャムツォはカルマ派の勢力を押さえてゲルク派の最高指導者となった。さらに彼が逝去した後、スーナムギャムツォが迎えられ、青海湖のほとりでチンギス・ハーンの末裔アルタン・ハーンに「ダライ・ラマ」(「大海のラマ」)という称号を授けられる。現在、世界的に有名になったダライ・ラマは、このような経緯で誕生した。  スーナムギャムツォはダライ・ラマ三世に位置づけられ、ツォンカパの直弟子ゲンドゥントゥプが一世、ゲンドゥンギャムツォが二世とされた。さらには、ソンツェンガンポ王(五八一~六四九年)にまで遡る転生の系譜が作られ、ダライ・ラマは古代からチベットを治めていたという物語が作られた。  その後も、モンゴルから選ばれた四世、国王として政権を確立し、ポタラ宮を建設した五世、酒食を愛し、遊興に耽った六世、清朝の内政干渉により政権崩壊を経験した七世……といった具合に、それぞれ特徴を持ったダライ・ラマが続いたが、九~一二世 次の

最後の記事

修験道

森羅万象に命や神霊が宿るとする、古神道の一つである神奈備(かむなび)や磐座(いわくら)という山岳信仰と仏教が習合し、さらには道教、陰陽道などの要素も加味されて確立した日本独特の宗教である。日本各地の霊山を修行の場とし、深山幽谷に分け入り厳しい修行を行うことによって超自然的な能力「験力」を得て、衆生の救済を目指す実践的な宗教でもある。この山岳修行者のことを「修行して迷妄を払い験徳を得る」ことから修験者、または山に伏して修行する姿から山伏と呼ぶ。 奈良時代に成立したとされ、役小角(役行者)を開祖と仰ぐ[3]が、あくまでも役小角は伝説的な人物なので開祖に関する史実は不詳である。役小角は終生を在家のまま通したとの伝承から、開祖の遺風に拠って在家主義を貫いている[4]。 平安時代ごろから盛んに信仰されるようになった。平安初期に伝来した密教との結びつきが強く、鎌倉時代後期から南北朝時代には独自の立場を確立した。密教との関係が強かったことから、独立した宗教ではなく仏教の一派ともされる。 江戸幕府は、慶長十八年(1613)に修験道法度を定め、真言宗系の当山派と、天台宗系の本山派のどちらかに属さねばならないことにした。 次の