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記事

論説

修行の目的

Le 2014年4月15日,   ジン

「さあ、修行僧たちよ、お前たちに告げよう、『もろもろの事象は過ぎ去るものである。怠ることなく修行を完成しなさい』と。」(大般涅槃経・第6章7)これがお釈迦様の最後のお言葉です。 お釈迦様は入滅の三ヶ月前にもこのように説かれています。 「わが齢は熟した。わが余命はいくばくもない。汝らを捨てて、わたしは行くであろう。わたしは自己に帰依することをなしとげた。汝ら修行僧たちは、怠ることなく、よく気をつけて、よく戒しめをたもて。その思いをよく定め統一して、おのが心をしっかりと守りなさい。 この教説と戒律とにつとめはげむ人は、生まれをくりかえす輪廻を捨て去って、苦しみも終滅するであろう。」(大般涅槃経・第3章51)最後まで、何をどのように精進すべきなのでしょうか。 「常に身体(の本性)を思いつづけて、為すべからざることを為さず、為すべきことを常に為して、心がけて、みずから気をつけている人々には、もろもろの汚れがなくなる。(法句経・第21章293) (...) 次の

ユーモア

Zem — L’éveil du désir

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今週の記録

お茶と宗教(仏教、道教など)

中国茶の歴史でも書いてあった「茶興於唐、盛於宋」という説があり、唐の封演の『封氏聞見記』巻六によると:「開元中、泰山霊岩寺大興禅教。學禅務於不寐、又不夕食、唯許飲茶。人自懷 (...)


日本人は、昔から "思いやり"を大切にしてきました

人の心の温かさを感じられない、殺伐としたニュースが、毎日のように報道されています。


愛と思いやりに満ちた人生とスピリチュアリティの実践

わたしたちの人生におけるすべての苦悩の源はマインドにあります。わたしたちの人生に対する基本的な姿勢や思いこみが、世界において何を経験し、いかに交流するかということを方向づけ (...)


写真は、デー

par Buddhachannel Asia


Evénements

「京の七夕」オール京都で開催 光るボールで天の川作る

京都府や京都市、京都仏教会などが8月6〜15日に京都市内の堀川と鴨川周辺で初めて開く新イベント「京の七夕」の実行委員会が29日、上京区内であった。参加者が堀川に光るボールを放流し「天の川」を創出するイベントなど詳細計画を決めた。  「京の七夕」は、春の「花灯路」と同様、「オール京都」体制で集客を目指す取り組み。堀川会場(一条戻橋-押小路橋)では、参加者がLED(発光ダイオード)を埋め込んだ光るボールを堀川に放流し「光の天の川」を演出するほか、放置竹林の竹と照明を組み合わせた全長80メートル巨大アーチなどのアート作品も展示する。  また、鴨川会場(御池大橋-四条大橋)では、伝統産業品とLEDを組み合わせた作品展示や友禅流しの実演などを行う。会場周辺の商店街などでも多彩な共催イベントを実施する。  全国から「願い」を集める「絵はがき短冊」も、26日時点で約1万6千枚販売され、夏の新しいイベン 次の


ヂィレクトリ

西明寺(中国)

西明寺の建つ場所(後述)には、隋代には尚書令楊素の邸宅があったとされる。それが、素の子である楊玄感の乱によって官没されてしまった。寺の創建に関しては、道宣の撰した『西明寺録』や、『西明寺図讃』という書物などにも記されていたとされるが、つとに佚して伝わらない。 創建は、顕慶元年(656年)のこととされ、高宗と武則天が、病弱であった皇太子の病気平癒を祈願して建てたものという。その規矩は未曽有の壮大さであったと記録されており、また、そのモデルとして、インドの祇園精舎が用いられたとされる。その様は、近年、発掘調査でも確認されつつあるが、大殿が10を数えたという。 玄奘三蔵も住したことがあり、また、仏教史家として名高い道宣がこの寺の上座の地位にあったこともある。ゆえに、その著述である『続高僧伝』や『大唐内典録』、弟弟子の道世の『法苑珠林』などが、この寺で撰せられた。 久視元年(700年)以後、義浄もこの寺に来て 次の

最後の著者

Yamada Yuji

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Articles et Conférences

サンガはどのようなものであったか (二)

 また、サンガには全員が平等な資格で参加して、少数意見が最大限度に尊重される議決方法を取るから、非常に民主的な組織であったと考えられている。しかしながら常に全員一致を要求されるような組織は現実的に存在しうるであろうか。人が3、4人集まれば、なかなか話がまとまらないのが常であるから、それが15人もの、あるいは100人もの大集団になればなおさらである。  ということで、今私のもっているサンガのイメージは次のようなものである。  仏教には今風の「教団」というような概念は存在しなかった。それは別に不思議なことではなく、ヒンドゥー教でもイスラーム教でも、そういうものは存在したことはない。いわば精神的な紐帯によって繋がっているだけの話である。  お釈迦さんが亡くなったときに、主立った弟子たち500人が王舎城というところに集まって、お釈迦さんの教えをまとめる会議を行った。これは「結集(けつじゅう)」と呼ばれている。要するに「お釈迦さんの教えとはどういうものであったか」ということを議題にした羯磨を行ったわけである。これは今流にいう「仏教教団」としての行事で、したがって全仏教徒を拘束する効力を持っていたように考えられているが、実はそうでもないらしい。  プラーナという仏弟子があった。これも500人の弟子たちを引き連れて別のところを旅行してしたので、この会議のことを知らなかった。そこでこの会議に出 次の

Billet du jour

初期仏教


  Kawashima Tomoko


Textes fondamentaux

百花春至為誰開(碧巌録)

『碧巌録(へきがんろく)』第五則「雪峰尽大地(せっぽうじんだいち)」の公案の頌(じゅ)にある言葉です。 寒風吹きすさぶ冬の時節は、見渡す限り枯野原でも、ひとたび春風が吹けば、何処(どこ)からともなく次から次へと青い芽を出し、たちまち緑をつけて、一斉に花を咲かせます。 梅、桃、桜、牡丹(ぼたん)、五月(さつき)、つつじ等が、まさに百花繚乱(ひゃっかりょうらん)と咲き乱れます。花の便りに浮かれ出て酒宴を設け、放歌乱舞(ほうからんぶ)の乱痴気(らんちき)騒ぎの「花見」だけでは花に申し訳ありません。この百花の姿が私達に大切な事を教えているのです。 江戸の漢学者、佐藤一斎(さとういっさい)の言葉にあります。 月を看(み)るは、清気(せいき)を観(み)るなり、円欠晴翳(えんけつはれかげ)の間(かん)に在(あ)らず。花を看るは、生意(せいい)を観るなり、紅紫香臭(こうしこうしゅう)の外に存す。(『言志四録』) 月を観るのは清らかな気を観るのであって、月が円くなったり、欠けたり、晴れたり、かげったりする形を観るのではない。花を看るのも、その生き生きとした花の心を観賞するのであって、紅や紫の色とか、香りのような外に現われた様子を観るのではない。 即ち花の生命(いのち)、心を学ぶべきだというのです。 「百花春至って誰が為にか開く」。花は一体、誰の為に咲くのでしょうか。誰の為でもありません。何の為でもありません。そこにはそういった 次の


仏教

仏教の歴史散策

太和九年(四八五)頃、長楽王秦州刺史の穆亮(ぼくりょう)が敦煌の鎮将に任ぜられた。穆亮は「政治を寛簡にし、窮乏を賑じゅつ」したので、敦煌はようやく安寧の機を得た。しかし当時、柔然の力はなお大きく、敦煌周辺は不安定で、たとえば敦煌の人・宋雲と恵生が仏教発祥の地である天竺に赴いたとき(五一八〜五一一二)、わざわざ現在の青海省を経由していることからみても、六世紀の初頭に至っても敦煌と西域の交通は必ずしも順調とはいえなかった。  正光五年(五二四)、敦煌鎮は瓜州と改められたが、内地では北魏自身をゆるがす六鎮の乱が起こり、河西地区にも影響をおよぼした。涼州は宇文氏が割拠し、瓜州、晋昌一帯でも小規模な反乱が起こり、刺史・太守が殺され、州城が占拠されることもあった。  この頃(孝昌元年[五二五]以前)に至って、明元帝の四代目の後裔にあたる元栄が瓜州刺史に任ぜられている。さらに永安二年(五二九)には、元栄は東陽王に封ぜられ、莫高窟に窟がんを造営し、多くの経典を写した。  五二五年、字文泰が政権を握り、北魏孝武帝を殺して元宝くを立てて文帝(在位五三五〜五五一)となし、長安に都して大魏を称した。これが「西魏」である。敦煌は西魏に帰すが、元栄は瓜州刺史にとどまっている。北魏末から西魏にかけて、 次の

最後の記事

仁和寺 (にんなじ)

仁和寺(にんなじ)は、京都府京都市右京区御室(おむろ)にある真言宗御室派総本山の寺院である。山号を大内山と称する。本尊は阿弥陀如来、開基(創立者)は宇多天皇である。「古都京都の文化財」として、世界遺産に登録されている。 皇室とゆかりの深い寺(門跡寺院)で、出家後の宇多法皇が住したことから、「御室御所」(おむろごしょ)と称された。明治維新以降は、仁和寺の門跡に皇族が就かなくなったこともあり、「旧御室御所」と称するようになった。 御室は桜の名所としても知られ、春の桜と秋の紅葉の時期は多くの参拝者でにぎわう。徒然草に登場する「仁和寺にある法師」の話は著名である。当寺はまた、宇多天皇を流祖とする華道御室流の家元でもある。 歴史 仁和寺は光孝天皇の勅願で仁和2年(886年)に建て始められたが、同天皇は寺の完成を見ずに翌年崩御した。遺志を引き継いだ宇多天皇によって、仁和4年(888年)に落成し、「西山御願寺」と称されたが、やがて年号をとって仁和寺と号した。宇多天皇は出家後、仁和寺伽藍の西南に「御室」(おむろ)と呼ばれる僧坊を建てて住んだため、当寺には「御室(仁和寺)御所」の別称がある。なお、「御室」の旧地には現在、「仁和寺御殿」と称される御所風の建築群が建つ。御所跡地が国の史跡 次の