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中世仏教の精神文化

木曜日 2013年4月4日, によって ジン

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法然が二十四歳となった一一五六(保元元)年秋、保元の乱が起き、中二年おいた一一五九(平治元)年の十二月には平治の乱が起こった。一一八一(養和元)年六月は一摘の雨さえ降らない旱魃で稲田は干上がってしまった。更に襲いかかってきたのが、秋に入ってからの暴風雨だった。

 こうした人災・天災は程度の差こそあれ、ほとんど毎年起こっていた。大雨が洪水を起こすこともあれぱ、せっかく実った稲が収穫を前に太風に吹き倒されたこともあった。天災の後に決まってやってくるのが不作であった。不作は飢饉を伴い、さらには疫病まで流行させる。

 生活に苦しむ人々のなかには、賀茂八幡の社領の青田を刈り取って秣にした者もいれば、「方丈記」に見るように古寺に入り込んで仏像を盗み出し、割り砕いて薪にした者もいた。世の中はまさに末法の世。庶民は仏の教えのままに、これこそ末法の到来を直感し、救世主の出現を望んでいた。

 六百年の歴史を担い、儀式・法要などで貴族社会とのみ密接につながり、専門化した「教学」となっていたわが国の仏教は、今や大きな変革が迫られていた。時代と世相の「苦」に翻弄される民衆、武家を精神的に救済する、まさに「宗教」への道のりであった。

 法然は西塔黒谷の叡空について学んでいた。ここには仏の姿を観ずるに至るまで念仏を唱えながら、五体倒地を朝から晩まで、来る日も来る日も続ける一群の聖たちがいた。彼らの観想の根拠となっていたのが、源信の「往生要集」だった。

 称名よりも観仏の方が悟りに近いことは疑いない。しかし、観仏は誰もが修することのできるものではない。法然が「往生要集」にのみ頼ることのできない理由もここにあった。様々に苦悩する法然の目に触れたのが、永観の「往生拾因」だった。称名を主として観仏を従とする。観仏よりも称名。ここが源信の立場と根本的に異なるところだった。

 「往生拾因」の根拠は唐の善導の「観経疏散善義」にあり、ここには「心を一筋に、行住座臥阿弥陀仏を称名することこそ、必ず救われる正しい行」だとされていた。尊い者も卑しい者も、男も女も、老いも若きも区別なくひたすら阿弥陀仏を称名すれぱ往生できるというのである。末法の世に相応しい教えが念仏であるという確信を得たのは、法然四十三歳、一一七五(承安五)年のことだった。

 法然は師の叡空と対立し、興福寺や延暦寺から弾圧を受けたが、念仏は民衆の間に急速に広まり、多くのすぐれた弟子を擁する教団は盛んになっていった。

 その一人が親鸞である。
 彼が比叡山で修行している間、平家は滅亡し、鎌倉幕府が誕生し、源頼朝が征夷大将軍に就任した。実力が血統に勝る新しい時代の訪れに、若い親鸞は勇気づけられながら修行に励んでいた(はずだった)。

 が、当時の比叡山も公家の世界と同様、全ては血統や家柄で決まる閉鎖社会だった。皇族・摂関家・左右大臣家の生まれか否かが比叡山での位置を決定する。これに気付いた親鸞は、比叡山における栄達や栄誉とは異なる新たなる道を歩み出した。それは、煩悩の火を消して内なる仏性を磨き出し、心の安らぎを確立する修行だった。

 しかし、どんなに苦行を続けても煩悩が滅却することはない。煩悩の火は却って燃え盛るばかりである。長い襖悩と修行の結果、親鸞が思い到ったのは、人間の本質的な姿は煩悩そのものではないか、ということだった。凡夫イコール悪人が人間の本質ではないか、生まれながらに仏性が人間に備わっているのではなく、それは長い旅路の果てに阿弥陀仏から与えられるものではないか、と親鸞は考えるようになる。

 けれども、行住座臥、阿弥陀仏に向かって称名しながらも、親鸞は、心のどこかで「一切衆生、悉有仏性」の人間性に期する所があった。人間が自力をもって弥陀の救いに加担しようとする気持ちがあった。自己の「悪人」性を自覚すれぱするほど、自己の努力なくしては救いに到達できないと思わざるを得なかったのである。が、結局これは弥陀の救いを百パーセント信頼しきっていない態度と言えた。救われた喜びの決して得られることのない姿勢だった。

 親鸞は、阿弥陀仏の前に煩悩具足の悪人である我が身の全てを投げ出し、信じきって称名し、弥陀が仏性を与えてくれるのをひたすら待つこと、これこそが弥陀の救いであると気がつく。親鸞は比叡山を下り、他力念仏に生きる道を求める。


 彼は京都六角堂での聖徳太子のお告げによって、吉水の法然を訪れることにする。他力の念仏者親鸞はすぐれた助産婦=法然に巡り合うことによって誕生した。

 法然の庵近くに居を構えた親鸞は、毎日巷に出て、他力念仏による救いを説き続けた。初め、巷の民衆には親鸞の教えは異様に映ったに違いない。諸仏、諸神に様々な宗教的善根を積んでこそ救われるという既成宗教の教えとまったく逆行していたからである。読経も造寺・造仏もいらない、写経もいらない、宗教的善根もいらない。弥陀の念仏一つに一切を任せよという教えだったからである。

 古い仏教集団の恐れと憎悪を受けた親鸞は、越後へ流され、関東へ逃れ、再び京都へと流浪しながら、しかし、布教の場を選ぱなかった。今まさに居るところが念仏布教の場であり道場であった。水を飲んでも、草の根を食んでも生き続け、人々に阿弥陀の念仏を教え広めなければならないと考えた。彼の教えを受けた僧侶たちのカもあいまって、親鸞の行くところ、いたるところに多くの念仏者あるいはその組織が生まれた。

 新興浄土教文化の代表的な担い手であるニ人を粗描してきたが、浄土教が生み出した有形の文化は、彼らのこのような姿勢を如実に反映していた。

 たとえぱ、庶民を背景に、布教の場を選ばず、修行の場を限定せず、日常生活即念仏修行と考えた新しい浄土教だった。時代と世相による苦を映し、そこに翻弄される民衆にとっての理解しやすさを、第一義に配慮していた。諸仏、諸神ではなく弥陀の救いのみを信じきる姿勢がそこには貫かれていた。

 寺院建築も華麗・豪壮なものでなく、簡単で素朴な草庵にも似た、起居できればよい程度のものであった。堂の荘厳や伽藍配置も簡素だった。中心は前代の金堂に代わって祖師堂となった。祖師堂は仏殿よりも大きな建築物となっていった。

 堂内での中心は阿弥陀仏像だった。阿弥陀仏像と共に優れた祖師像も彫刻された。祖師像は写実的であった。

 布教の補助手段に使われた来迎図や浄土曼陀羅は、民衆に分りやすい表現手法がとられた。代表的な来迎図には京都禅林寺、金戒光明寺の「山越来迎図」、知恩院の「早来迎図」などがある。

 流浪し、巷にまじり、所を嫌わず布教した浄土教を反映して、祖師の行状図、旅路の画巻、あるいは伝記も多く描かれた。これは当時隆盛を極めた大和絵の影響するところも大きい。これとても、当麻往生院の「法然上人行状絵図四十八巻」などは例外で、普通は簡素なものだった。前代の物語絵巻などのような豪華で装飾的なものでなく、色数も少なく、構図も単純な物が多かった。詞書と絵伝で成り立っているが、文字の読めない民衆をも射程に入れた作風だった。

 書写することよりも普及を配慮して、経典を木版に彫り、印刷して配布することも広く行われた。

fkoktts.hp.infoseek.co.jp/tyuuseibukkyou.html から



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