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日本の古寺めぐりシリーズ番外編

名古屋の名刹を巡る・真福寺、興正寺、日泰寺、甚目寺

木曜日 2010年7月22日

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今月14日15日と日本の古寺めぐりシリーズ番外編第3弾として、名古屋の古刹に参詣する。昨年はこの時期長野善光寺の御開帳にお参りしたことを思い出す。今回はそのルートを少し手前で東海方面に歩を進める。大阪と東京の中間ということもあり、素通りしがちなため改めて参詣に訪れるということもなかった土地ではないだろうか。しかしこの度調べを進めることで、奈良や筑紫に匹敵する古いお寺があることに改めて気づかされた。

真福寺のある岡崎市は、肥沃な平野部に古くから人が生活していた土地柄で、戦国時代には松平氏が力を蓄え、江戸時代には徳川家康の生誕地とされて別格に扱われ、岡崎藩として、岡崎宿、藤川宿と二つの宿場町としても栄えた。朝の連続テレビ小説「純情きらり」の舞台としても知られる。また興正寺と日泰寺のある名古屋市は、1620年に家康が築城を命じて徳川義忠が入城したのが起源だという。名古屋城の目的は大阪方の防止で、名古屋台地と言われる台地にあり、城下町は京都や奈良のように碁盤割りで、熱田神宮大須観音などが名古屋の中心本町筋にある。また甚目寺のある、あま市は名古屋市の西に位置し、今年3月に甚目寺町と美和町、七宝町が合併して出来た新しい市で、もとの甚目寺町は甚目寺の門前町として栄えた土地であろう。


真福寺

真福寺は、岡崎市真福寺町字薬師山というところにあり、正式名を霊鷲山降劒院真福寺という。天台宗のお寺。公式ホームページの由緒には、「推古天皇二年(594)物部の守屋の次男真福(まさち)が山の頂きより霊光かがやき端雲たなびくをみて不思議に思い訪れたところ、滾々と湧き出る泉を発見した。しばしたたずんでおられた真福は日頃信仰しておられた薬師如来が水中より顕れ出られ、(是好良薬今留在此)と誦して再び泉の中に姿を消された。これを目の当たりにして非常に感激し末代まで伝えようとして本堂を建立したのが真福寺の始まりである。鎌倉時代には最も栄え、36坊の末寺を有した。現在は、身体健康と目のお薬師様として愛知県下はもとより全国より多くの信仰を集めています。」とある。

物部の真福の本願により、聖徳太子が建立した、三河国最古の寺院である。仁王門には、大きな寺名の入った扁額がかかっている。「霊鷲山真福寺」とある。霊鷲山(りょうじゅせん)とは、インドのラージギールにある山の名前で、沢山の大乗経典を説法された場所として知られる。仁王門は、応永十七年(1410)に焼失後、明応三年(1494)に再興されたものである。仁王像は永正十二年(1515)に建立され、 3mを超える巨像である。山門横には小さな地蔵堂と千手観音堂がある。

山門を登ると開山堂が見えてくる。開山、真福長者は毘沙門天の化身といわれ、堂内に本尊として毘沙門天がお祀りしてあるため、毘沙門堂と表記されている。本尊は室町初期のものである(文化財指定)。本堂へ上がる石段前に小さな木造の多宝塔がある。塔中に釈迦、多宝如来の二仏が同座する。多宝如来は東方宝浄世界の教主、総ケヤキ造りで屋根は檜皮葺。室町初期建立。そこから石段を上がると本堂、本堂の中心に八角の御堂があり、 その中の井戸の水が水の体の薬師、水体薬師といい、本尊なのだという。 この水が目と身体に大変良いということから 1400年以来、水の信仰がつづいている。

本堂の上に大師堂があり、慈恵大師・元三大師とも、平安中期の天台宗の中興の祖とも言われる良源を祀っている。荒廃した比叡山を厳格な規律を作り復興、門下三千人とも称せられ、後に源信・覚雲によって恵檀二流に発展して天台教学の最隆盛期をもたらした。慈恵大師像は、文永十一年(1274)鎌倉中期の春快作であり、 建物もこの年に建立されたものである。

本堂から回廊で行ける鐘楼堂や庫裏、八坂神社、信徒会館などがある。また、山の西側には金蔵院という塔頭があり、もとは六ヶ寺の下寺があり真福寺を中心として一山をなしていたが、廃仏毀釈の時に 真福寺、金蔵院を残し、後は潰されたのだという。 現在では真福寺営繕事務所となっている。また寺宝は菩提樹館という宝物観に展示されており、重要文化財の白鳳時代の仏頭などがある。仁平元年(1151)に火事にみまわれ、 その時にかろうじて持ち出したものといわれ、県内最古のもの。

興正寺

興正寺は、尾張藩城下から信州飯田へ延びる飯田街道沿いの八事村に約三百年前に開かれたお寺で、八事山(やごとさん)遍照院興正律寺が正式名称。開山の天瑞円照和上は、承応年間(1652 1654)に大阪難波に生まれ、武蔵の国で出家後、山城の黄檗山万福寺で修行の後、真言宗の江戸時代における戒律復興の系譜にある快圓律師を摂津地蔵寺に訪ね、和泉の大鳥山に真政和尚から律を学び戒を受け、生駒山で密教を学び、高野山にいたり、法雲和尚から弘法大師の五鈷杵を授かった。そして、当時親族の居た当地にいたり、尾張徳川二代光友公によって、鎌倉時代の興正菩薩叡尊の法流にあるとのことから興正寺として寺号を賜り元禄元年に律寺建立が許可された。

光友公の帰依によって今日ある伽藍がほぼこの時代に出来上がっていく。大日堂に安置される丈六金銅大日如来は、光友公の発願によって造られ、元禄十年4月17日に開眼され三日三晩供養されたという。こうして興正寺は戒律を重視した学問修行の寺として隆盛し、五代諦忍和尚の時、西山阿弥陀堂を建立して阿弥陀如来を祀り庶民のための信仰の地として浄土信仰を開いた。諦忍は、華厳、律、法華、浄土念仏などを広く研究し、多くの独創的な書を著し、天下に知られ多くの僧が来山したという。その愛弟子真隆の代に一文講を発願して浄財を集め今の五重塔を建立した。

境内は西山普門院と東山遍照院に分かれ、普門院は一般参詣者のための境内で、東山は本来僧侶の修行場である。総門は、元禄十年、七世真隆和上の時代に再建された。参道は、右側が勝軍地蔵など六地蔵と弘法大師、左側は七観音を祀る。その先には中門、かつて西山と東山の間にあって、女人禁制の時代の結界として女人門と言われた。五重塔は、県下唯一の木造塔、国の重文、文化五年に建立、高さ30メートル。観音堂には、開山時の二代尾張藩主光友公が参勤交代の際に念持仏として持参された慈覚大師円仁作の観音像が祀られているる。

正面には普門園として一区画があり、本堂ほか大書院や茶室、座禅堂、位牌堂、信徒会館などがある。本堂は、五代諦忍和尚が真言念仏の教えによる大衆教化のために寛延三年(1750)に建立、本尊阿弥陀如来、大随求明王、不動明王、愛染明王、文殊菩薩、弘法大師、などが祀られている。

東山門は、名古屋城から宝永年間に移築された物、奥の院には、興教大師作不動明王を祀る護摩堂があり、その隣に阿弥陀堂として元禄三年に建立された東山本堂、その先に石清水八幡宮を勧請した鎮守社があり、その西側に、開山堂、弘法大師、開山の天瑞円照和上、興正菩薩を祀る。その隣に大日堂、山内で一番高いところにあり、元禄十年に光友公の母の供養のために鋳造された高さ3.6メートル重さ2トンの大日如来像が安置されている。

葵の御紋を寺門とする興正寺は、今も研修僧を受け入れるなど単なる信仰の寺としてではない本山に匹敵する学問修行の寺としてあり、だからこそ、縁日には毎月5万人もの人が詰めかけるのであろう。現在は高野山真言宗の別格本山である。因みに別格本山には、かつて参詣した那谷寺、周防國分寺があり、ほかに神護寺や大安寺などがある。つまり大寺の証明である。

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