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古代信仰の真相

木曜日 2010年7月1日, によって ジン

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これまでの日本人が接した宗教は、道教、儒教、仏教、キリスト教などであるが、仏教伝来以前の日本の宗教はどのようなものであったろうか。アイヌの信仰、日本書紀の記録をもとに縄文人・弥生人などの古代人の信仰を推理してみる。

 5世紀ごろは、今の埼玉県から北は、蝦夷民族の領土であった。蝦夷民族がどのような民族であったのかは、明確でないが、今のアイヌの人たちも蝦夷民族の一部であったと考えられる。最近のアイヌの研究で、彼らの宗教観が明確になってきた。それは、人間は死ぬと「あの世に行く」、あの世は美しく楽しいところである。

 ところが、この世で、善行をした人は、いつまでもあの世にいられるが、修行の足りない人は、死んでもすぐにこの世に戻され、再び修行しなければならない、というのである。要するに、アイヌでは、死者の行くところは、すべて同じで「あの世」だけなのである。そして、不徳の人間だけが立派な人間になるまで、この世とあの世を往復するのである。

 また、彼らは、一人に一柱の神が付いていると信じていた。これが、集団になると一つの部落には、一つの神が付いていることになる。そして、部落同士の戦になるとそれぞれ神に祈り、勝てば神に感謝するが、負けると自分の神を罵るのである。

 そして、降伏するとは、自分の神を捨てて、相手の神を奉ることであった。こうすることにより、勝者は、無用な殺戮をすることなく相手を従えることができたのである。長年のアイヌの知恵が、このような世界に類のない神と人間の取引を考え出したものと思われる。 


 アイヌの信仰の中で、もう一つ特徴的なのが守護動物信仰である。これは、たとえば、生まれにより、ある人の守護動物は、タヌキであったり、キツネであったりする。したがって、アイヌ人は、自分の守護動物をやたらに殺さない。 ところが、弥生人である倭人には、この習慣がなかった。タヌキでもきつねでも手当たり次第殺したのである。そこで、弥生人とアイヌあるいは、縄文人と間で衝突が起きた。

 日本の民話の中に、タヌキやきつねが人を化かす話がしばしば出てくるが、これは、次のように考えられる。平気でタヌキを殺す倭人がいたとする。それを、タヌキを守護動物にもつアイヌが見ていたとしたら、腹立たしくなるし、仕返しをしてやろうと考えてもおかしくはない。

 そこで、かのアイヌは隙をみて、肥溜めにこの倭人を突き落としたり、弁当を馬糞と入れ替えたりして、この倭人が驚き、慌てるところをみて楽しんだのである。これが、タヌキやきつねが人を化かす話となり、民話となって残ったものと思われる。

 縄文人は、古モンゴロイド人という説がある。アイヌも顔の彫りは深く古モンゴロイド人と考えてよいと思う。極端な話、縄文人=アイヌであったかもしれない。そうでなくても、縄文人のかなりの割合が、アイヌで占められていたものと思われる。

 そうだとすると、日本に定住していた縄文人は、アイヌと同じ宗教観だったのではないだろうか。ところが、アイヌのような宗教観を持たない弥生人が西から進攻してくるようになってから、しだいに日本からは、縄文的な宗教観は、徐々に消えていったものと思われる。

 中国から入ってきた干支(えと)は、動物で誕生年を表示するが、日本人は、もともと守護動物信仰があったので、違和感なく取り入れたものと思われる。この干支による動物表示は、縄文人の守護動物信仰よりは、はるかに宗教的色彩が弱く、単に誕生年を動物の符号で表現しただけのもであった。

 もともと干支は、動物とは関係なく決められたもので、それを後世の人が、遊び心で東西南北の方向に語呂合わせで動物を割り振ったに過ぎない。したがって、後世、徳川綱吉が、自分の干支に因んで、過度の動物愛護政策(生類哀れみ令)を施行したが、これは守護動物信仰とは関係ない。


 もっとも、動物愛護に関する法律は、徳川綱吉が最初ではない。日本書紀の天武天皇の章に「馬、牛、猿、犬、鶏の肉を食べてはいけない。これ以外は、かまわない。」とうい令が出されている。これ以外とは、猪、熊、鹿などで、これらの動物は食べてよかった。

 馬、牛は貴重な労働力であり、戦争の道具でもあるから食べてはいけないというのは判るが、猿、犬、鶏の肉を食べてはいけないという理由はわからない。中国では、猿の肉を食べる習慣があるし、朝鮮では犬の肉を食べる習慣がある。(今でも狛肉として売られている)

 ところが、7世紀後半から、日本では、猿、犬、鶏の肉を食べることが禁止されたのである。しかも、その後も日本人は猿、犬の肉を食べることはしていない。

 考えてみると、この3種類の動物は、桃太郎のお供をして鬼退治をした動物である(鶏ではなく雉であったが)。この桃太郎の話と猿、犬、鶏の肉を食べてはいけないということと関係あるのかどうか判らないが、単純な動物擁護の精神から禁止されたわけではなさそうである。たとえば、天武王朝になんらかの手柄のあった氏族が、守護動物信仰をもっていて、この三種類の動物が保護されるように働きかけたのかもしれない。

 アイヌの祭りに熊祭り(イヨマンテ)がある。これは、大事に育ててきた熊を月夜の晩に殺して、神に捧げるという祭りである。 ペットのように長い間、村中で育てた熊を殺すことは、私達からみると奇異な感じがするが、アイヌの宗教観からすると、これは大事な儀式なのである。 熊はこの世で人間に大事にされて殺される。殺された熊は、あの世に行き、他の熊に「この世」で人間に大事にされたことを話す。

 すると他の熊が、自分も人間の住んでいる「この世」に行ってみようと思う。こうして、この世は熊でいっぱいになり、アイヌの人たちは、食料に不自由しなくなる。このように食料の大部分を狩猟により調達していたアイヌにとって、イヨマンテは、食料増産の大事な儀式なのである。

 また、現在残っている動物信仰の例として、神社・大社などでは神の使いとして特定の動物が指定されている。たとえば、出雲大社の使いは「蛇」、稲荷神社の使いは「キツネ」、橿原神宮の使いは「カラス」、金毘羅宮の使いは「タヌキ」、春日大社と鹿島神宮の使いは「鹿」などの例がある。

 これらの神社や大社は、それぞれのいきさつから、関係の深い動物を指定して、これら動物に「神のお使いをする係り」という役割を負わせている。これなどは、縄文人の守護動物信仰の名残と思われる。

 縄文時代の日本人は、今の長野県から青森県あたりに集中的に住んでいた。その人口は300万人ぐらいと推定されている。(中国から独立を主張しているチベット人とウィグル人の現在の人口はそれぞれ200万人程度である)この人たちの宗教観は、アイヌの宗教観と同じようなものであったろうと考えられる。そこには、人間と神との関係、人間と動物との関係、神と動物との関係が、生き生きと語られていたのである。

 信仰と生死観、生死観と葬儀の方法、この二つは密接な関係を持っている。三内丸山遺跡で発見された人骨は、1.5~2.0リットル程度の壷に収めて埋葬されている。(日本のような弱酸性の土壌では、人骨は3000年以上は残らない。しかし、化学的分析で人骨の有無は検証できる)

 人間の骨はこの程度の壷には納まらないから、死者は一度埋葬されてから、何年か後に再び掘り出され、骨だけが壷に収められ、再度埋葬されたものと見られる。この埋葬方法は、現在でも沖縄の一部で行われている。

 このことは、縄文人と沖縄人とが、遠い昔は、同一民族であったことを示している。ところが、弥生時代になると2度埋葬する習慣はなくなり、かわりに、モガリ(死者を一定期間埋葬せずにおいて置き、その後埋葬する)を経たのち埋葬する葬儀方法になった。これは、縄文人と弥生人とでは、信仰や生死観が違うことを示している。

 日本の現在の喪服の色は、黒である。実は、喪服の色を黒にしたのは、明治以降、西洋に習って黒にしたのである。それまでは、日本人の喪服の色は「白」であった。今でも、死者には、白の服を着せるし、時代劇の切腹シーンは、ほとんどが白装束である。

 実は、日本を含め北方アジアの喪服の色は、古来から白であった。今でもモンゴル人の葬列には、服の上から白の喪服をかぶって参列する慣わしがある。白の喪服は、再びあの世に蘇生するに当り、初心に返って、あの世に出発するという意思表示なのである。

 古代では、死者の家や持ち物は、葬儀のとき、焼く習慣があった。これは、生前の持ち物を死者とともにあの世に送るという意味である。(古代エジプトでもこの習慣はあった)この習慣は、比較的後世まで残っていたようで、大和王朝でも王が死ぬと住んでいた宮を焼く習慣があった。また、大和王朝では、王が変わるたびに都を移していた。話は、飛躍するが、このことが、神道でいうところの禊(みそぎ)や祓(はらい)に繋がって行ったものと思われる。

  時代は3世紀になるが、魏誌の東夷伝の中の倭人伝では、東海(日本海)のほとりに倭国があり、女王がこれを統治すると記載されている。いわゆる邪馬台国の卑弥呼である。倭人伝によれば、卑弥呼は、鬼道に通じよく衆を惑わす(従える)と出ている。最近の研究では、この鬼道というのは、道教の呪文の一方法であるらしいということが、判ってきた。つまり、卑弥呼は道教の道士的手法を身につけていたのである。


 これ以前の説では、シャーマニズムの一種と考えられていたのである。シャーマニズムとは、自然崇拝による原始的宗教であるが、日本を含めて北方アジアには、共通した点がある。それは、巫女による神がかり現象である。

 北方アジアの民族には、神がかりの現象がしばしば見られる。特に、女性にその現象が起きやすく、痩せ型で、ヒステリックな女性がなりやすいという研究報告がある。痩せ型で、ヒステリックな女性は、世界どこにでもいるが、北方アジアの女性には、この神がかり現象がしばしば見られるのである。恐山の巫女や韓国の巫女は、今でも神がかり現象を職業にしている。

 最近までは、卑弥呼もこの神がかり巫女と思われていた。しかし、鬼道という言葉が、道教用語であることから、卑弥呼は、道教に通じた巫女かつ邪馬台国(あるいは邪馬壱国)の女性リーダーだったと言うのである。こうしてみると、西暦230年ごろには、日本の一部には(九州には)には道教が入っていたことになる。

 道教は、崇高な理論を持った宗教というのではなく。どちらかと言うと日常生活を規範した宗教である。たとえば、台所や便所は清潔にしなければいけない、食事の前には手を洗わなければいけない、食事の食べ合わせとしては、どれとどれがいけない、と言ったことである。

 ここに挙げた事例は、今では常識的な事柄であるが、当時としては、宗教的な教えとなっていたのである。一方、道教には、迷信的な意味のない儀式や作法も多く、このうちのいくつかは、今でも地方の民間行事として残っている。

 また、道教では、剣、鏡、壷が重要かつ神聖な宗教道具で、冠婚葬祭や国家・家庭の平安、民族・家族の繁栄などを祈るときに使われた。3世紀の九州の古墳から剣が出土することや4世紀の近畿の古墳から多くの鏡が出土していることを考えると九州から近畿までは、道教の教えが同時代には広く普及していたようである。

 また、最近の研究で、前方後円墳は、壷を寝かしたときの形を古墳にしたものであるとの研究報告もあるが、これが事実だとすれば、ますます、道教は、日本全体に広がっていたことになる。

  古代、各部族には、それぞれの族長がおり、部族の生活、宗教、健康を守りため、いくつかの必需品を神器として、大切に保管した。多いところでは、10種類ほどの神器があった。その中に、作物の種が意外と多いのである。すなわち、農耕生活者にとって、作物の種は、命より大切なものであった。部族によっては、海産物なども神器として扱っていた例がある。

 神器で有名なのが、天皇家に伝わる三種の神器である。剣、鏡、勾玉がそれである。しかし、これとて、はじめから、この3つが天皇家の神器であったわけではない。数々の変遷を経て最終的にこの3つにたどりついたのである。

 しかもそこには、往年の生活感に満ちた作物の種は入っていない。道教の祭祀を行うために必要な剣、鏡、壷の内、剣は鉄製、鏡は青銅製で、両方とも当時は貴重品であったため、三種の神器に加えられたのである。

 残る、壷は陶器・磁器でできるため、弥生時代にはすでに貴重品ではなくなっていた。また、勾玉は、通常、ヒスイでできている。ヒスイは弥生時代の貴重な輸出品(ヒスイ)であったため、三種の神器に加えられたものと思われる。こうして見ると、天皇家の三種の神器は、農耕生活に基盤をおくのではなく、宗教的、工業的性格のものである。

 日本にいつ道教が伝わったかは、記録にない。しかし、道教が伝えられた痕跡は十分にある。九州から近畿あたりまで、道教の祭祀が、年に数回行われていたものと思われる。道教は、従来から日本にあった自然崇拝と一体となって、普及していったものと思われる。

 応神天皇のころ(4、5世紀ごろ)、中国から、儒教の経典がはいて来た。これが、日本に漢字が入ってきた最初と言われていた。しかし、最近の考古学は、これより古い時代の漢字を発見しているので、今では、「ワニ」による漢字の紹介が、日本で最初の漢字使用ではなくなった。しかし、「ワニ」は、日本に最初に儒教を紹介した人ではある。

 この時代の、道教と儒教の教義の違いは定かでないが、儒教の教義の中心をなす「孝行・忠節・任侠」などは、「子曰く、・・・」といった調子で語られていたものと思われる。4世紀に今の大阪に基盤を置いた王朝を応神王朝と言うが、この王朝は、儒教を崇拝していたとも思える節がある。

 九州大分県の宇佐市には、有名な宇佐八幡宮があるが、ここは、応神天皇を祭った全国八幡神社の総本山である。 応神天皇は、日本で最初に戦(いくさ)の陣形を中国から取り入れて実践した人として有名で、源氏の氏神とされ中世から近世にいたるまで広く信仰されていた。

 
 ところが、よく考えてみると、あまりにも全国には八幡神社がありすぎるのである。「村の鎮守さま」というとほとんどが、八幡神社である。鎌倉時代以降、武士社会になってから多くの八幡神社が建立されたのであろうが、それにしても日本には多くの八幡神社がある。

 この現象をどのように理解したらよいのであろうか。おそらく、応神王朝が、儒教の「孔子廟」にならって、応神天皇そのものを祭る「廟」を全国に作らせたのではないだろうか。この廟が八幡神社となって、現在に残っているのである。応神王朝の支配範囲は、九州から、関東南部ぐらいであったが、この範囲に当時としてはおびただしい。神社が建設されたものと思われる。(これは、筆者の仮説である)

 そもそも、応神王朝は、大規模建設を好んで行った王朝である。世界最大の仁徳天皇陵、それに次ぐ応神天皇陵など現在も大阪にその大きさを誇っている。このように考えないと全国に広がった八幡信仰の説明が付かないのである。

 全国の稲荷信仰は、五穀豊穣を願う日本人の信仰が稲荷神社となったということで説明がつくが、八幡神社には、村人がなにをお願いしたのであろうか。戦勝を祈願するのであれば、全国の村々に八幡神社は必要ない。要所要所に八幡神社があれば、それで済む。

 要するに、日本を支配した応神王朝は、儒教の教え、特に、王朝への忠節を信仰の中心に置き、応神天皇の木像(鎧姿)や剣などと一緒に全国に社を作らせたものと思われる。しかし、応神王朝は、比較的短い期間で終わったため、次の王朝になると八幡神社は残ったものの、王朝への忠節信仰は消えてなくなった。後世、この木像や剣が、武士の守り神となり、ついには、源氏の氏神となったものと思われる。

 次に、日本に儒教が歴史の表面に出るのは、建武の中興で有名な後醍醐天皇のときである。後醍醐天皇は、儒教の一派である朱子学の実践を目指した人で、臣民は無条件で君主に仕えるべきであるという思想を、鎌倉倒幕から死ぬまで信じた人であった。

 しかし、家名や一族の利益を最優先に考える武士階級にとって、後醍醐天皇の考えは、受け入れるところとならず。ついには、足利尊氏によって京都から追われることになった。その後、儒教は、歴史の表面から消えることになるが、1600年ごろから今度は徳川家康により、武士階級の心構えとして、半ば国教のようにして導入され、歴史の表面に出ることになる。

井上友幸さん より
home.att.ne.jp/banana/history/Dai04-shinnkou.html  から

 

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