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18 juillet 2016, par Stefania Mitrofan

Mahajanaka Jataka

18 July 2016

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修行の目的

火曜日 2014年4月15日, によって ジン

Langues :

「さあ、修行僧たちよ、お前たちに告げよう、『もろもろの事象は過ぎ去るものである。怠ることなく修行を完成しなさい』と。」(大般涅槃経・第6章7)これがお釈迦様の最後のお言葉です。

お釈迦様は入滅の三ヶ月前にもこのように説かれています。 「わが齢は熟した。わが余命はいくばくもない。汝らを捨てて、わたしは行くであろう。わたしは自己に帰依することをなしとげた。汝ら修行僧たちは、怠ることなく、よく気をつけて、よく戒しめをたもて。その思いをよく定め統一して、おのが心をしっかりと守りなさい。

この教説と戒律とにつとめはげむ人は、生まれをくりかえす輪廻を捨て去って、苦しみも終滅するであろう。」(大般涅槃経・第3章51)最後まで、何をどのように精進すべきなのでしょうか。

「常に身体(の本性)を思いつづけて、為すべからざることを為さず、為すべきことを常に為して、心がけて、みずから気をつけている人々には、もろもろの汚れがなくなる。(法句経・第21章293)

「ブッダの説かれたとおりに、呼吸を整える思念をよく修行して、完成し、順次に(諸の煩悩を)克服してきた人は、雲を脱れた月のように、この世を照らす。(ウダーナヴァルガ・第15章1)

「身を真っ直ぐに立て、心もそのようにして、立っても、坐しても、臥しても、つねに念(おもい)を落ち着けてととのえている修行僧は、過去についても未来についても、勝れた境地を得るであろう。過去についても未来についても勝れた境地を得たならば、死王も見(まみ)えないことになるであろう。」(同2)

「身体についてつねに真相を念い、つねに諸の感覚を慎み、心を安定させている者は、それによって自己の安らぎを知るであろう。」(同3)

「目ざめていて、念いを落ちつけ、正気でいて、心を統一安定させ、喜んで、心もちが明らかに澄んでいる者は、適当な時々に正しい教えを熟考して、生まれと老い、ならびに憂いをのり超えよ。」(同5)

「それゆえに、つねに目ざめておれ。念いを落ち着けて、怠ることなく、勇を鼓して、生まれと老いという束縛の絆をすてて、この世にありながら苦しみを終滅させる。」(同6)
お釈迦様の布教伝道の目的はただ一つ、人々を「苦から救済すること」でした。

苦は煩悩から生起します。煩悩とは身心を乱し、悩ませ、智慧を妨げる心の働きを言います。煩悩の根源(人間の諸悪の根源)は貪欲(とんよく:食欲、睡眠欲、性欲、金銭欲、出世欲、名誉欲、物欲等々)・瞋恚(しんに・怒り)・愚痴(ぐち)の三つとされ、これをあわせて三毒と呼びます。三毒の中でも特に愚痴、すなわち物事の正しい道理を知らないこと、(無明)が、最も根本的なものであるとされます。

さらに、煩悩は、我執(自己中心の考え、それにもとづく事物への執着)から生じ、形あるものとして生存しようとする、自己形成力を生じると説かれます。 したがって苦からの解脱とは、「煩悩によって生じる自己形成力の消滅」を意味します。

「大食いをして、眠りを好み、ころげまわって寝て、まどろんでいる愚鈍な人は、大きな豚のように糧を食べて肥り、くりかえし母胎に入って(迷いの生存をつづける)。」(法句経・第23章325)

「世間には種々な苦しみがあるが、それらは生存の素因に基づいて生起する。実に愚者は知らないで生存の素因をつくり、くり返し苦しみをうける。それ故に、知り明らめて、苦しみの生ずる原因を観察し、再生の素因をつくるな。」(スッタニパータ・第三大いなる章728)

「およそ苦しみが生ずるのは、すべて潜在的形成力に縁って起こるのである」というのが、一つの観察(法)である。「しかしながら潜在的形成力が残りなく離れ消滅するならば、苦しみの生ずることがない」というのが第二の観察(法)である。(スッタニパータ・第三大いなる章730に続く節)

苦からの解脱が、形成力の消滅を指すことというのは、お釈迦様が悟りを開かれたときに発せられたお言葉に象徴されております。

「わたしは、家を作る者(の正体)を探し求めながら、はたすことなく、数多くの生(死)輪廻をめぐってきた。生(死)をくり返すのは苦しいことだ。

家を作る者よ。(ついに)おまえは見破られたのだ。おまえは、ふたたび家を作ることはないであろう。おまえの梁はすべて折られ、家の屋根は壊れてしまった。こころは(自己を)形成するはたらきを離れ、渇愛は滅ぼしつくされた。」(法句経・第11章 153-154)
我々は自分を生まれ変わり死に変わりさせる形成力(エネルギー)を滅することが出来ないが故に輪廻しています。

それでは、輪廻から抜け出た、悟りを開いた後の世界は、どのような境地であるとお釈迦様は表現されているのでしょうか。

「水も無く、地も無く、火も風も侵入しないところ――、そこには白い光も輝かず、暗黒も存在しない。」(ウダーナヴァルガ・第26章26)
「そこでは月も照らさず、太陽も輝かない。聖者はその境地についての自己の沈黙をみずから知るがままに、かたちからもかたち無きものからも、一切の苦しみから全く解脱する。」(同27)
「これは最上の究極であり、無上の静けさの境地である。一切の相が滅びてなくなり、没することなき解脱の境地である。」(同29)

「教えを説いて与えることはすべての贈与にまさり、教えを味わう楽しみはすべての楽しみにまさり、忍耐の力はすべての力にまさり、妄執をすべてほろぼすことは(すべての)快楽にうち勝つ。(同31)

輪廻の外の世界は、想像を絶するほど広大な沈黙の世界であり、言葉や概念の成立しない世界であると説かれます。「坐禅をすると〈無〉になる」などと、簡単に各種メディアで取り上げているのを見ますが、そのような安易なものではありません。

言葉や概念の不要な世界に行くためには、当然ながら言葉や概念を捨てることができることが第一条件であり、その為に修行の第一ステップとして、「思考を追い続けない」(あらゆる事象を概念化しない)ことが一番の近道となります。

坐禅瞑想修行中の心がけは、自身やその周りで起こっていることを、概念化せずそのまま気づいていくことであり、その手段として、自分の心や体の状態をよく観て、「今ここ」の状態をそのまま認識をする事が一番の近道と説かれます。

以上の道理をまず信じることができた時、「悟り」への階段の第一段目に登ることができます。

お釈迦様の教えの基本(=仏教)を信じることが出来ないで修行をしても、当然の事ながら、全く見当違いの方向を向いているということになるでしょう。

さらに、仏教についての評論や書物は、世の中に数え切れないほど出ておりますが、お釈迦様の教えというものは、教えを説かれ始めたその趣旨に照らして分かるように(四諦と八正道は密接不可分)、実際に、修しながら体得していくということが大前提になると思いますので、仏教においては行ずることなく論ずることは成り立ち得ません。したがって修行を試みたことさえもないような方が書かれた仏教あるいは仏道に関する記述というものは、<巨象を見たことも撫でたことも無い者が書いた巨象の図>あるいは、<美味しい食事を味わったことがない人が、美味しい食事の味を色々に書いた文章>という事になるのではないでしょうか。

その様な文章をどれだけ読んでも、本当の教えに対する理解は、得られないと思います。

joshukuji.info/meisou.html  から




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