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退翁 性撤 ( 1912 1993 )

水曜日 2010年6月9日, によって ジン

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1. 生涯
性撤は1912年、慶尚南道の山清郡で学識ある剛直な家柄の長男として生まれた。俗名は李英柱であった。若い頃、彼は人生に対する根源的な解答を求めるために、東西古今の深奥な哲学、思想書などを読破したが、その疑問は完全に解消できなかった。そんなある日、ある老僧が勧めた『証道歌』を読み心の目が開かれた。すぐに彼は大源寺へ入り世俗の身分で日夜「無」字の話頭に取り組み参禅した。そこでは動静に関係なく常に一貫した状態である動静一如の境地に没入した。海印寺の堆雪堂で参禅している時、彼はついに、出家することを決心し、1936年(25歳)3月に東山を恩師として出家した。

その後、龍城に仕え、梵魚寺の元暁庵、海印寺の白蓮庵などの禅院で安居した。1940年(29歳)、桐華寺の金堂禅院で夏安居に入っている間に大きな悟りを得た。悟りに達してから8年間、有名な長坐不臥の修行に入った。長坐不臥とは、長い間座ったままで横にならないという意味であり、参禅の基本姿勢である跏趺坐をしたまま長く座っていることをいう。その後、自分の悟った境地を確認するため雲水行脚を行ったが、1947年(36歳)に「仏の法のように生きよう」という主張の下で鳳岩寺の結社を主導した。これは日本の統治下で衰退した韓国の禅仏教の本来の宗風を復活させ、かつての叢林の法道を再びこの国に蘇らせるためであった。実際、この結社によって、韓国仏教の現在のあり方を決めた原則が立てられ、さらにここに參加した僧侶たちは、後に、大韓仏教曹渓宗の禅風を代表するようになった。


1950年、朝鮮戦争が起きて結社が瓦解すると、性撤は再び多くの禅院をめぐり歩いて修行しながら安居に入った。その頃、慶尚南道の安静寺の前の谷間に闡提窟を建て、参禅精進しながら、そこを訪れる信徒たちに三千回の拝礼をさせた。性撤に面会したければ、若者であれ老人であれ、金持ちであれ大臣であれ、誰でも関係なく、仏の前でまず、三千回の拝礼をしなければならなかった。彼が例外なく信徒たちに三千回の礼拝をさせたのは、絶えず膝や腰などの曲げ伸ばしによって感じられる肉体的な苦痛の中で、自ら自分の心の汚れを拭って無くし、自分を正しく見るようにしようとする方便からきたことである。1955年(44歳)、把渓寺の聖殿庵へ入り、そこに鉄条網を張り巡らして長坐不臥を始め、10年間一切外出しなかった。

1967年、海印叢林の初代方丈に就任してから百日間、性撤は四部衆に説法を行った。これがかの有名な百日法門(韓国語で説法のことを法門という)である。百日法門では、仏教の根本真理が禅と教を通じた中道にあること、禅宗の正統な宗旨は頓悟頓修にあることを明らかにした。一方、不生不滅の真理は原子物理学や量子力学においても立証されると述べた。釈尊の思想を中道として伝えた百日法門によって、韓国仏教は禅宗、教宗を問わず皆な、仏教思想に対して新しく目覚めるようになった。

1981年(70歳)、性撤は大韓仏教曹渓宗の第7代の宗正に就任し、その時話した「山は山であり、水は水である」という就任法語は、世間の非常な関心を呼び起こし、一般の人々にまで広く膾炙するほどであった。彼は宗正になっても山中を離れることなく、自分に面会しようとする人には地位の高下を問わず三千回の拝礼をさせてから説法を行い、漆黒のような無明の世界に一筋の光を照らした。1991年、第8代の宗正に再推挙され涅槃するまで、海印寺に閉じこもり外出せずに、少しでもわき目をふる修行者には「この泥棒、めし代を出せ」と怒鳴りながら、より熱心に修行するよう督励した。このように徹底的な山僧であることを譲らなかった彼は、1993年11月4日、堆雪堂で涅槃に入った。世寿82歳、法臘59年であった。

2. 著書
性撤の著書には『性撤法語集』11巻がある。内容は、『百日法門』上下、『禅門正路評釈』、『頓悟入道要門論講説』、『信心銘․証道歌講説』、『永遠な自由』、『自分を正しく見ましょう』、『敦煌本 六祖壇経』、『禅門正路』、『本地風光』、『韓国仏教の法脈』からなり、この中、頓悟頓修論の立場から韓国禅の思想的な淵源と法脈を闡明した著書が『韓国仏教の法脈』である。1976年、当時の曹渓宗の宗正であった西翁に宗憲を改めるべく提案するために書いた本書の中で性撤は、曹渓宗の宗祖は太古普愚にするべきであると一貫して主張した。その他にも、禅修行に絶対必要な禅語を選んで韓国語に翻訳した『禅林古鏡叢書』37巻がある。

3. 思想の特徴
性撤の思想は、1967年に海印叢林の初代方丈を務めながら100日間行った百日法門によく現れている。この説法を通じて彼は、亂れていた仏教教理を整理、集大成し、曹渓宗の法脈を立て直して禅宗の核心思想について新たな解釈を示した。この教えは大きく三つに要約できる。

第一には、釈尊の輪廻説は方便ではなく定説であるから信じるべきであるということである。すなわち業によって生死を繰り返すという「輪廻」は、仏教の最も基本的な概念であるからしっかりと信じなければならないということを説いた。第二には、仏教は科学的な宗教であるということである。性撤はアインシュタインの相対性理論とE=mc²の公式によく例えながら、仏教における色即是空、空即是色を合理的に説明した。質量がエネルギーに、エネルギーが質量に変わっても、増えることも減ることもない関係が、仏教では直ちに法界(真理の世界)であると説き、科学が発達するほど釈尊の教えの正確さが立証されるとした。第三には、仏陀の教えは中道であるということである。善と悪、質量とエネルギーが一つに通じるように、あらゆる矛盾が融和して一つになるということである。

また、頓悟頓修を主張して、普照国師知訥の頓悟漸修説を批判した。ここで性撤は、頓悟漸修の「頓悟」と、頓悟頓修の「頓悟」とは違う概念であると述べた。頓悟漸修における悟りは「分別作用〔智解〕」に過ぎず、この智解を真の悟りを得られない悟り〔解悟〕と命名した。いわば頓悟漸修は間違った表現であり、正確にいえば、解悟漸修と呼ぶべきであると説いたのである。解悟の場合には、究極の悟りを得るために絶え間なく修行する漸修が伴うのは当然である。ただ性撤は、普照も初期には頓悟漸修を主張していたが、涅槃の直前に著わした『節要』には、頓悟漸修は禅宗ではなく教宗に該当し、禅宗ではないと明確に宣言したと説いた。

その他、一般的に自分の安泰や利益のために行う供養に関しても、彼は他人のためにする奉仕を強調する大乗仏教の教えに従ったとされる。すなわち供養とは、人を助けるためにあるものであって、寺院に寿命や福など現世的な利益を与えてもらうために行うものではない。また本來、寺院は供養の本当の意味を教える所であって、供養を捧げるためだけの所ではないと説いた。そして、自分の生活は自らの努力によって解決し、祈りは全て人のために行う生き方を「真の宗教人の姿勢」であると述べた。


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