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18 juillet 2016, par Stefania Mitrofan

Mahajanaka Jataka

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自分の中に仏国土を築くということ

金曜日 2010年5月28日

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1)自分の中に仏国土を築くとは 一体どういうことか?

「苦集滅道」が四諦と言われ、釈尊が悟られた後に最初に説かれた教えであることはご存知の通りです。

この4文字を見ながら「第三の生き方」という言葉がふと私の脳裏をかすめたことがありました。
「苦集滅道」は 一般的には「人生は苦である(苦)。苦の原因は欲望である(集)。苦の原因である欲望を滅したとき安らいを得ることができる(滅)。この滅への修行が道である(道)。」というふうに説明されることが多いように思います。稲葉先生も例外ではなかったように思います。しかし 私は苦集滅道はそのように平面的なものではないのではないのかと感じています。その中には「3つの生き方」が隠され われわれに生き方の選択を迫る鋭い刃(ヤイバ)のような言葉ではないかと思われてなりません。自分としては面白い着想だなぁと少し感心しました。実は、取り立てて珍しい着想ではないとは思いますが、まずこのことを簡単に説明致します・・・

 ① 一つ目の生き方:
「集」つまり「思い」は むしろ 素晴らしい人間の理性の働きとしてとらえる生き方。「苦」を苦にしない生き方。

頭の働き・思いの働きである科学技術文明あるいは経済の発展を人類や自分の発展・成長と信じて疑わない生き方。個人的には薬とジョギングなどの健康法でとにかく若さを保ち、長生き狙うような人生、その特性は 経済成長・科学技術の進歩や若さを保ち・長生きして、それで一体何を目指したいのかには殆ど関心を払わないこと。この生き方が高じてしまうと、科学技術文明の進歩が自然浄化力を超えたことで起こっている地球環境破壊が、科学技術文明の更なる進歩で解決できると信じるに至る傾向に陥る。

② 二つ目の生き方:
「集」つまり「思い」から生まれる「苦」を苦と感じ、それを忌諱あるいは克服しようとはするが、「思いの働き」を忌諱・克服しきれないで それに焦りあるいは罪悪感を感じている生き方。

一つ目の生き方に近いが、人生が根源的にもっているはかなさを忘れられない生き方。いろいろ自分探しや自己実現に努める生き方あるいは芸術や浄土に夢を託す生き方。その特性は、自己実現といいながら自分の外に目標を置き、芸術や浄土といいながら 今のこの瞬間以外に何かを求め、要は 「今」の「自分」は、常に否定あるいは克服の対象になってしまっていること。そして「今」の「自分」を否定しようとしていることに当の本人が余り気づいていないこと。この生き方が高じてしまうと 限りなく「オタク」的な内向きの頭でっかちの生き方になる傾向がある。

  ③ 三つ目の生き方
一つ目の生き方のように、「集」つまり「思い」を肯定・賛美する(追い求める)こともなく かと言って二つ目の生き方のように、「集」つまり「思い」を否定・拒否し(追い払う)こともなく ただただ思いを手放すつまり「滅」としての生き方。一つ目の生き方と二つ目の生き方では「集」つまり「思い」の中で人生を生きようとしているのに対して 三つ目の生き方では、「集」つまり「思い」を離れ、「滅」の方向への180度転換を決断した生き方であり、「道」とは「滅」へと方向転換の後 具体的に一歩 踏み出すことである。

「苦集滅道」は、平面的な教えではなく、われわれに 「お前は、お前の“思い”が造りだしているに過ぎない六道輪廻の世界を流転して生きるか? それともその輪廻を断ち切る生き方を目指すのか?」と、この今・ここにおいての人生の選択を刻々迫る刃(ヤイバ)のようなものではないかと私は感じています。そして 自分の中に仏国土を建築するとは この今・ここにおいて“思い”を離れ 六道輪廻世界での流転と決別する滅の方向へと自分を転換させる選択をすることに他ならないと私は思います。


2)その仏国土は どうすれば自分の中に築くことができるのか?

 それはやはり坐禅をすることの一語に尽きると私は思います。ならば 坐禅はどのようにしてわれわれの中に
   仏国土を建設してくれると言うのでしょうか・・・?

卑近過ぎて さすがの私でも憚る表現をこれからしますことをまずお許し下さい。天国の先生に千棒・万棒を受ける覚悟で、自分の今の思いを素直に表現させていただきますと・・・・、
実は「便所で糞をする」「夜 眠りに入る」のと全く同じ働きで 坐禅は「仏国土を築いてくれる」のではないかと私は感じています。そして こう受け取ることで学生時代からの一つの疑問が解消しました。

たとえば便器に坐った途端 待ってましたとばかりに糞が出てくれて快感を味わうこともママあります、しかし 私の場合 じっとすわっている内に数分して尿意を催して用が足りたという経験も少なくありません。まだ実験はしていませんが普通ならズボンをはいたままならいくら便座に坐っていても尿意は催さないと思われます・・・。考えてみると 尿意を催すという現象は、当たり前にみえて実は本当に不思議な現象だと思われてなりません。

たとえば 夜 寝床につく。バタンキュウ!で眠るときもないではありません。しかし 私の場合は かなり酒でも飲まない限りそういうことはあまり起こりません。翌日ゴルフでもあれば なかなか眠つけません。しかし どんなときでも 寝床でしばらくウツウツしていると大抵は知らないうちに眠ってしまっています。いつの間にか寝てしまう これも不思議といえばこれほど不思議な現象はありません。

坐禅によって自分の中に仏国土を築くことも、この「糞をする」「眠る」のも命の働きとしては、全く同じ現象だと私は言いたいのです。 つまり 一定の条件の中にしばらく自分の身心を置けば 誰にでも必ずかつ自ずと起こる現象だと私は今強く感じています。つまり 脚を組み・背中を伸ばし坐禅の姿勢を取り、自分の一番無理の無い長さと速さで呼吸をするだけ。あとは 壁あるいは畳など周辺の景色は目に入るまま、鳥の声や車の音などの周辺の音は耳に入るまま、風の流れや空気の寒暖は体が感じるままにまかせておれば、仏国土は知らぬ間に自分の中に築かれて行くのではないかと思っています。より正確には オレがオレがという思いの霧が晴れるにしたがい、実は生まれたときから自分の中に既に築かれていた仏国土がその姿を現すということではないかと思います。


ところで 学生時代に2年ほど臨済宗の寺で生活したことがありますが、寺では 朝晩、みんなで白隠禅師の坐禅和讃を唱えていました。卒業後も 山田無文老師の同名の解説本は、本の背の綴じ目がほどけるほど何回も読みかえしたものでした。その中の一節に「一坐の巧をなす人も積みし無量の罪ほろぶ」とあります。ここにくると いつも「なんて白隠さんもオーバーなんだろう。たった一回坐禅してナンデ無量の罪がほろびるというのか?」と私は感じてしまいます。しかし もし 仏国土の建設が私が感じますように「坐禅の姿勢をとることで自然に生じる全ての人に備わった“生命現象“」であるとするならば、「快便・快眠と同じ命の働き」であるとするならば、なるほど一度坐れば、また それが誰であっても、仏国土は 即 建設できるはずだ!白隠禅師は 決してオーバーな人ではなかった!と合点した次第です。

しかし同時に、坐禅というものは「悟ればあとは何をしても悟りの境涯」という学生時代に憧れていたような話はこれこそが荒唐無稽であり、とにかく坐禅は一生し続けていかねばならないものだということを改めて感じさせられることとなりました。何故ならば 坐禅の姿勢を取ると自ずと仏国土が現れるということは、坐禅の姿勢を止めるとその仏国土も自ずと消えてしまうものなのですから・・・


3)坐禅が実現してくれる仏国土の中身は具体的には一体どんなものなのか?
仏国土とは 三つ目の生き方 つまり ここ・今において 自分の生きる方向を集から滅へと真反対に方向転換させることであり 身心を坐禅という一定の状態に保てば 誰にでも いつでも建設できると申しましたが、それでは、坐禅のときに現れる仏国土ともいえる状態とは一体どんなものなのでしょうか、大変大胆不敵ですが、自分なりに表現を試みたいと思います。
坐禅ちゅうに感じますことは 敢えて表現しますと、それは「オレが、オレがという思いは限りなく静まっているが、しかし自分は間違いなく存在している。自分は間違いなく存在しているが、オレが、オレがという思いは限りなく静まっている」「7間日の接心でも1時間の坐禅でも 始めた坐禅は必ず終わるのだが、ちゃんと坐れていれば 今・今としてしか時間は存在していない。今・今としてしか時間は存在していないが、始めた坐禅はやはり必ず終わる」とでも言えるのでしょうか。
三つ目の生き方とは このような坐禅で日々を生きることだとでもいうことができると思われますが、それは つまり 思いが自・他、過去・現在・未来と分けてしまった世界を 元通りの一体の世界に戻った地盤で生きていくということではないかと想像されます。坐禅を離れても、オレが オレがという思いが静まっているときは、何をしていても、それら全てが快食・快便と同じ命の働きであり 自分はその命の働きの真っ只中に生かされていることを感じることがあります。そういう時には 白隠禅師が坐禅和讃の中で われわれは皆「長者の子」であるといわれた所以がここにあるのだろうかと思ったりします。これ以上変なことを書くと あの世の先生から呼び出しをくらってもいけませんので、この辺で止めておきたいと思いますが、オレが オレがという思いが静まっているときは、何をしていても、どこにいても 自他不可分の自分だけの世界を生きているのだということをシミジミと感じることもないではありません。白隠禅師が坐禅和讃の中で 「無二無三の道・無相の相」などといわれているのはこのことかなぁと夢想したりしています・・・・?

これらは 身心が感じそれを頭が描いた抽象的世界にではなく 身心が感じた世界に直接わが身心を置いた結果生じる実感なのではないかと私は想像しています。


山内庸行 より

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