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中国の精進料理

金曜日 2014年4月25日, によって ジン

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歴史
まず、中国では、仏教伝来よりも1000年以上早い殷(商)代より、祭祀または重大な儀礼に際し、神への畏敬の念を払う意味で、沐浴をし、一定期間肉食を断つ習慣があったとされる[1]。また、1日と15日には肉を食べないという風習もあった。記録に見られるものでは、周代の儀礼についてまとめた『礼記』「玉藻」には「子卯稷食菜羹」(子と卯の月にはウルチキビを食べ、野菜のあつものを飲む)とあり、『礼記』「大喪記」には「期終喪,不食肉,不飲酒」(期、喪を終えるに、肉を食べず、酒を飲まず)、『周礼』「天官冢宰」には「大喪則不舉,大荒則不舉」(葬礼時、凶作時は肉食など贅沢をしない。)という文章がある。これらは常時の食習慣ではないが、斎食、斎戒の風習や、意図的に肉類を使わない料理を作ることがあった事実が分かる。

後漢の明帝時代に伝えられた、インドの仏教では、托鉢によってのみ食べ物を得ることを求めていたため、当時は三種の浄肉であれば食べた。また、食事は午前中に限って行うことが求められ、最終的に植物を傷めることになる農耕は禁じられていた。漢に招かれた僧侶も、当初は国王など有力者の支援で、この様な戒律に従って食べることができたが、農耕社会である中国で、托鉢はなかなか受け入れられず、有力者の支援を得られなくなると、僧侶たち自らが山野で山菜などの採集をしたり、農耕を始めざるを得なくなった。同時に殺生を戒める立場から、肉を食べることは大乗慈悲に反する[2]と考えた。殺生の戒めは中国にあった儒教の「仁」の考えとも通じるものがあり、広く受け入れられた。同時にこの時代は西域から新しい野菜やウリ類が導入され生産量が増えたとともに、石臼が普及し、小麦粉、大豆、植物油などが利用できるようになった[3]ため、醤油、豆豉などの加工品を含め、植物性のものだけを食べても必要な栄養や風味を確保できる条件が整った。

南北朝時代になると、仏教徒も増え、精進料理も普及してきた。梁では、熱心な仏教徒であった武帝蕭衍が、511年に僧侶を集めて作成した『断酒肉文』を出し、僧侶に肉食、酒を断つことを指示した結果、菜食が定着した。北魏の賈思勰が549年までに著した『斉民要術』にも「素食」という項目に精進料理31種が記載されている。

唐代には禅宗が信者を増やし、勢力を拡大したが、逆に戒律を守らない僧が出るなど、乱れも見られた。このため、百丈懐海が『百丈清規』を定め、インド仏教の戒律を基礎に、中国の地理、風土に合った、農耕、勤労を求める戒律を整備した。また、植物でも臭いが強いものは修行に影響を与えることを嫌い、禁葷食とした。こうした禁葷食は、中国独自の宗教である道教にも影響を与え、宗派にもよるが、同様の基準で制限が行われることが主となった。他方で、チベット仏教の寺院では禁葷食の考えはなく、偶蹄類の肉や乳製品を食べるが、馬や鶏や水中生物は食べないなど独自の禁忌がある。

隋代において、施主をもてなすために作られた精進料理は、キノコや野菜を煮た「羹」と呼ばれるとろみのあるスープが主で、これに茶請けの菓子(点心)を添える程度であったが、唐代には徐々に山菜や野菜に手間をかけて出すようになった。また、宮廷で皇帝のために豪華なものを作ることもあり、肉食に似せたもどき料理も考案された。宋代には調理方法や料理の種類もさらに豊富になり、市中に精進料理専門店も現れた。清代は精進料理の最盛期となり、さまざまなもどき料理の出来を競うようになった。当時の『随園食単』や『調鼎集』にも「素焼鵝」などの精進料理が載せられている他、薛宝辰の『素食説略』のような専門書も著された[4]。一方で、味を競った結果、動物性の出汁を使う例も生まれた。

中華人民共和国成立後、文化大革命などの宗教迫害によって、寺院、道観で豪華な精進料理は作れなくなった時期もあるが、現在は、大規模な寺院や道観の多くで、信徒や観光客向けの精進料理が供されている。簡単なものでは、きのこそばの様な麺類と饅頭程度のすぐに食べられるものから、数日前に予約が必要な凝った宴会料理まである。宴会料理が食べられることで著名な寺院、道観の例をいくつか挙げると、五台山、上海の玉仏寺、武漢の帰元寺や長春観、アモイの南普陀寺、香港の寶蓮寺などがある。他に大都市には精進料理専門のレストランがある。




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