Buddhachannel

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論説

日本人の科学教信仰

Le 2015年7月11日

アメリカ人の半分近く、45%が、人間は1万年前、神によって現在の姿に作られたと信じているという。かれらは現在の人間がサルから進化したという科学的常識を否定するのである。(2004年11月ギャラップ調査)  メキシコでは、同じような調査は知らないが、おそらく45%という比率はグンと上がって、70%位には行くのではなかろうか?  かれらは90%までがカトリック信者で、キリスト教徒として洗礼を受け、日曜ごと教会へ行って神父の説教を聞き、伝統的な宗教習慣にのっとって生活している。成長して高等教育を受けるようになると、だんだん科学的に物事を見るようになり教会へも行かなくなるが、それは全体からすれば少数派だ。  さてそれでは日本人はどうかと言うと、9割近く自然科学的な進化論を信じているのではないかと思う。今、お寺の檀徒になっている人は人口の8割くらいだろうか。七五三とか元旦には、これまた80%以上の人たちがお宮参りをするそうだ。  仏教と神道(しんとう)をごちゃ混ぜにした信者が多そうだが、 次の

ユーモア

Zem — Fastoche

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今週の記録

日本人は、昔から "思いやり"を大切にしてきました

人の心の温かさを感じられない、殺伐としたニュースが、毎日のように報道されています。


お茶と宗教(仏教、道教など)

中国茶の歴史でも書いてあった「茶興於唐、盛於宋」という説があり、唐の封演の『封氏聞見記』巻六によると:「開元中、泰山霊岩寺大興禅教。學禅務於不寐、又不夕食、唯許飲茶。人自懷 (...)


愛と思いやりに満ちた人生とスピリチュアリティの実践

わたしたちの人生におけるすべての苦悩の源はマインドにあります。わたしたちの人生に対する基本的な姿勢や思いこみが、世界において何を経験し、いかに交流するかということを方向づけ (...)


写真は、デー

par Buddhachannel Fr.


Evénements

「京の七夕」オール京都で開催 光るボールで天の川作る

京都府や京都市、京都仏教会などが8月6〜15日に京都市内の堀川と鴨川周辺で初めて開く新イベント「京の七夕」の実行委員会が29日、上京区内であった。参加者が堀川に光るボールを放流し「天の川」を創出するイベントなど詳細計画を決めた。  「京の七夕」は、春の「花灯路」と同様、「オール京都」体制で集客を目指す取り組み。堀川会場(一条戻橋-押小路橋)では、参加者がLED(発光ダイオード)を埋め込んだ光るボールを堀川に放流し「光の天の川」を演出するほか、放置竹林の竹と照明を組み合わせた全長80メートル巨大アーチなどのアート作品も展示する。  また、鴨川会場(御池大橋-四条大橋)では、伝統産業品とLEDを組み合わせた作品展示や友禅流しの実演などを行う。会場周辺の商店街などでも多彩な共催イベントを実施する。  全国から「願い」を集める「絵はがき短冊」も、26日時点で約1万6千枚販売され、夏の新しいイベントとし 次の

Vidéo du jour


ヂィレクトリ

三千院

三千院は8世紀、最澄の時代に比叡山に建立された円融房に起源をもち、のちに比叡山東麓の坂本(現・大津市)に移され、たび重なる移転の後、1871年(明治4年)に現在地に移ったものである。「三千院」あるいは「三千院門跡」という寺名は1871年以降使われるようになったもので、それ以前は「梶井門跡」「梶井御所」「梶井宮」などと呼ばれ、「梨本門跡」「円徳院」などの別称もあり、「円融房」が正式の寺名だったようである。一方、往生極楽院(旧称・極楽院)は、平安時代末期の12世紀から大原の地にあった阿弥陀堂であり、1871年に三千院の本坊がこの地に移転してきてから、その境内に取り込まれたものである。 境内には往生極楽院のほか、宸殿、客殿などの建物がある。このうち、境内南側の庭園内にある往生極楽院は12世紀に建てられた阿弥陀堂で、内部には国宝の阿弥陀三尊像を安置している(三千院と往生極楽院は元来は別々の寺院であった)。 次の

最後の著者

Nanny Obame

Etudiante en école de publicité, je suis journaliste reporter à la base. Je (...) 次の


Articles et Conférences

もうひとつの生き方

『大人』とはどのようなものなのでしょうか。 こころの大人は、圧倒されるような存在感を持っています。居るだけで社会に良い影響を与えます。こころの大人ほど、役に立つ人はいません。大切なのは、経た年月ではなく、こころの成長の度合いなのです。いくつかの例を見てみましょう。 ■こころの平安が持つ力 仏教界では、智恵の第一人者はサーリプッタ尊者です。仏弟子になる前にも、インド社会においては一流の知識人でした。インドのすべての宗教哲学にあきてしまったサーリプッタ尊者が、真理を求めて遊行を始めたそのとき、悟りを開いて間もないアッサジ尊者に突然出会いました(アッサジ尊者はお釈迦さまの最初の5人弟子の1人です。サーリプッタ尊者のようなケタはずれの知識人ではなく、もとは普通のバラモン人でした)。アッサジ尊者の歩く姿が目に入っただけで、サーリプッタ尊者のこころは驚きました。きっとこの人は真理を発見しているのだと思いました。アッサジ尊者にはサーリプッタ尊者に仏教を教えるはどの知識能力はなかったのですが、彼の一言を聞いてサーリプッタ尊者は預流果の段階の悟りを開きました。ケタはずれの知識人もこころの大人にはかなわないというところでしょう。 次に、仏教を世界宗教に発展させたアショカ帝王の例です。インド史上で初めて、全インド半島を統一して支配したのはアショカ王です。このために、残酷な侵略も数十万人以 次の

Billet du jour

中道 中庸


によって ジン


Textes fondamentaux

『法華経』の説明

『法華経』はサンスクリット名「サッダルマプンダリーカスートラ」と言ってお釈迦様が入滅して500年頃に原型が成立したと言われています。 お釈迦様が亡くなられ後100年間は仏教徒は仲良く信仰・修行をしていましたが、100年後に保守的な部派と進歩的な部派に分裂して、その後は分裂に分裂を重ねて20部派にも派閥が出来てしまいました。 そして互いに相手の非を論(あげつら)い戯論に耽って、苦しみに喘ぐ一般人を顧みなくなって行きました。 お釈迦様の死後400年を経過した頃から、それらの部派佛教のあり方を批判して、「お釈迦様の時代に還れ」を合言葉に「私達は大乗の菩薩である」という自覚のもとに多くの大乗仏典が創作されました。 しかし、多くの大乗佛典は、従来の部派佛教の修行者を「声聞・縁覚の二乗」或いは「小乗」と貶し、部派佛教の側も「大乗」の側を「経典を勝手に創作するのは悪魔の仕業」と言って非難しました。 この小乗VS大乗の抗争は、全ての衆生の幸せを願ったお釈迦様の本願に背くとして「それぞれの立場(声聞・縁覚・菩薩)の違いに執着せずに、みんな目指す所は仏様のお悟りなんだから、いがみ合わずに仲良くしましょう」と主張するお経が創られました。 それが『法華経』です。 この経典の目的は『宥和一致』 次の


仏教

仏門の修行生活(下)

原始仏教の時代、僧侶達の日常行事は外へ托鉢に行く以外に、毎日各自の修行もありました。修行の方法は二つありました。一つは、教理を勉強する。二つ目は、禅定を修行する。教理を勉強するとは、お釈迦様の説法を聞く、互いに討論することです。禅定を修行するとは扶坐(坐禅)或いは経行する(林間を行ったり来たりする)ことでした。そののち、お寺に仏像があるようになり、経典も文字に記録されました。そこで、礼拝、供養、讀経などの儀式がされるようになりました。 近代、漢民族のお寺における毎日の修行は、明時代の終りごろにやっと統一されたものです。各寺の日常行事“五時間の勉強”は決まりとなりました。五時間の勉強とは、“二回仏殿”及び朝食、昼食、晩の薬石など五つの修行です。 全寺の僧侶は毎朝早い時間に大雄宝殿に集まり、楞嚴呪、陀羅尼呪、十小呪と心経を唱えます。晩の勤行も大雄宝殿に集まり、念仏及び阿弥陀経を唱え、八十八仏の礼拝及び大懺悔文を唱える、施餓鬼など三つのつとめをします。 “二回仏殿”以外に、朝食と昼食は(二時臨斎儀)の通り、食べ物を諸仏菩薩に供養し、施主の方々に回向をする、そして衆生のために発願をしてからいただきます(供養呪を唱えると言います)。夕食については、仏の定められた 次の

最後の記事

莫高窟

莫高窟 歴史 敦煌市の東南25kmに位置する鳴沙山(めいささん)の東の断崖に南北に1,600mに渡って掘られた莫高窟・西千仏洞・安西楡林窟・水峡口窟など600あまりの洞窟があり、その中に2400余りの仏塑像が安置されている。壁には一面に壁画が描かれ、総面積は45,000平方メートルになる。敦煌石窟・敦煌千仏洞と言った場合、広義ではこの全てを含むことになるが、歴史・規模・内容全てに渡って莫高窟が圧倒しているために敦煌石窟・敦煌千仏洞と言った場合でも莫高窟のことを指すのが普通である。 作られ始めたのは五胡十六国時代に敦煌が前秦の支配下にあった時期の355年あるいは366年とされる。仏教僧・楽僔(らくそん、僔は人偏に尊)が彫り始めたのが最初であり、その次に法良、その後の元代に至るまで1000年に渡って彫り続けられた。現存する最古の窟は5世紀前半にここを支配した北涼の時代の弥勒菩薩(みろくぼさつ)象で足を交差しているのは中央アジアの影響を受けている。それ以前のものは後世に新たに掘った際に潰してしまったようである。窟のうち、北部は工人の住居となっ 次の